バスケ部同好会へ読み物の投稿

鹿子木基員

この投稿は、-畑 敏雄先生(1940(昭和 15)年卒)が書いた最初の歴史書-の紹介です。東工大バスケットボール部85年史の中に収録してあるので、蔵前工業会ホームページのバスケット部同窓会のサイトで閲覧できます。東工大学友会10年史に掲載された文章で、私が入学したのは、10年以上後の1958年です。
畑敏雄先生は、私が現役時代のバスケット部長で、監督の須藤六郎先生ともども、たいへんお世話になり、人生の大事なことを沢山教えて頂きました。畑先生は、私のバスケの恩師である畑竜雄先生の弟でもありました。東工大を退官した後、群馬大学学長を2期務められ、その後、接着工業会を設立して活動されました。私が、ポリマー開発に従事していた時、研究所にお招きして、講演していただいたこともあります。
バスケ部同窓会の総会・新年会のシーズンに、現役を初め、同窓会メンバー各位に、歴史に学ぶことの意義を思い出して頂くために、ご紹介します(鹿子木):


東工大学友会十年史(昭和四-十四年)(1929-1939)(163-165 ページ)

籠球部 -畑 敏雄先生(1940(昭和 15)年卒)が書いた最初の歴史書-

大學は早くも十年の齢を重ねてここにその歴史 を編まうとするに到つてゐる。

六年、七年、八年にわたる大学リーグの成績は、闘将志賀の活躍にも拘らずよい方ではなかつた。

一年間の部費も常に七、八十円の程度を出なかつたので、活動も思うにまかせなかったに相違ない。

さてこの第一期の籠球部は熱心な部員の大量的卒業と共に次第に不活発な 状態に陥り、昭和九年には大学リーグの試合に出場せず、遂に本部委託の運命となるに到つた。

われわれの籠球部はしかしながらその母なる大學と同じに年をとつたとは言ひ得なかつた。

創立早々蔵前から引き繼がれた籠球部は十年後の今日も猶創立當時と同じ 嬰さと悩みと又同じ希望と明るさとを持つて胎動を続けている。

われわれには誇るべき戰績もなければ語るべき伝統もない。

年々歳々新しき部員が 新しきエスプリを以てバスケツトボールを遊戯して来たにすぎぬというのが真実であらう。

さればその十年の間に事実上部の活動を停止し た空白の数年があつたとしても、敢へてその時代 の責任を追求する必要もなければ部の恥辱と考へる必要もない。

それは籠球に對する工大學友の誠に正直な關心の表示であるに過ぎないからである。

そしてそれは又選手制度を否定して一般學友のた めのスポーツを標謗する本學運動部の當然のあり 方であると思ふのである。

然しながらこのことの是非は自ら別に論せられ なければならない。

スポーツの本質はそのバスケ ツトボールたると否とを問わず、楽しむことにあるといふよりは寧ろ苦しむことにある。

學生スポーツに於て特に然る。

選手制度が公式的に否定し 得ず否寧ろ大きな存在理由を有すると思はれるのは、それが要求する献身と苦痛とによつてである。

之はスポーツマンにとつての第一義の道である。

之に對して、樂しむスポーツ、健康のためのス ポーツ、社交のためのスポーツ等々というものが 存在するとすれば之はスポーツマンの第二義の道 である。

而してわれわれの大學があらゆる角度からわれわれのために醸成しつゝある雰園氣は遺憾ながらまさにこの後者のためのものでしかないやうに思われる。

籠球部の過去もこの埓外に多くを 出でなかつたことを告白しよう。

しかも限りなく 籠球を愛し、スポーツ生活の第一義の道を憧憬することに於て人後に落ちない熱心な部員がゐたことも事実なのであるが。

部としての籠球部の歴史は大學昇格の日より僅かに早く昭和四年一月に始まる。

それまで蹴球部 内に成長してきた愛好者のクラブが一月の評議會 の議決を經て正式に籠球部に昇格したのである。

當時の主な目標は全日本選手權大會、全國高専大會等の如き勿論であらうが、主として秋の關東 専門學校リーグに全力が注がれていた。

しかし之 れは蔵前が大學となると共に退いて、代つて昭和六年關東大學リーグ(二部)の一員となつた。

当時の記録中興味を引くものに夏季合宿がある。

昭和四年五年共に合宿を静岡の東洋モスリン工場の附属コートで行つて、練習と見學とコーチと經費節約と一石数鳥の案を實行した。

もとより練習の1940(昭和 15)年卒 畑 敏雄 先生 - 13 - ためには能率の良い計劃ではないが工科學生の一つの面を見得て面白い。

その後仮眠すること三年、籠球愛好者のやむにやまれぬ欲求が再結晶して復活の事が計劃されたのは昭和十九年も末であつた。

この殊動者の筆頭に成蹊高校出身の大石があり、 それを援けて土志田、野村、立石、谷口、福島等の協力者があつた。

現在の籠球部は之に引續く全くの嬰兒である。

十二年の内部充實時代についで十三年は再び關東リーグ二部に加盟し、帰り新参の威力ももの凄く慶應を除く他の全校を完全に紛碎した。

本年はもとよりこのリーグ(二部)の優勝を狙ひ日本籠球界の最高峰をうかゞふ意氣込みを以て練習を積んでゐるのである。

◇ バスケットボールを技術的に見ると甚だ難しい競技である。

他の如何なる競技よりも細いテクニ ツクと微妙な頭脳とコンビネーシヨンが要求される。

之を體育的に見ると甚だ過激な運動である。

アメリカの統計が示す所ではアメリカンラグビーに次いで怪我の多いスボーツ即ち荒いスボーツでもある。

しかもこのバスケットボール競技は、今日日本の如何なる山間僻地の小學校へ行つても校庭にその設備が見られるやうに、小學生にも容易に入り得るボピュラリテイをもつ競技なのである。

女學校でも盛に行はれてゐる。

實業団チームが最近急増して来た。

これらの事実はバスケットボー ルがあらゆる意味に於て最も入り易くして最も奥 深いものであることを證明してゐる。

バスケツトボールは萬人のスポーツなのである。

このことは本學に於ける現況ともよく一致する。

部員以外に各科(機械、應化、電氣、建築等)學生のクラスマツチ、豫備部生徒の練習等々を通じて籠球部の利用状態は甚だ活?である。

我々はこの現象を喜ぶ。

それと同時に更に来たりて共に苦しむバスケツトボールをやらうではないかと呼びかけざるを得ないのである。

そこから新しい籠球 部精神が生まれる。

そこから新しい大岡山精神を作り出さなければならぬ。

我々の言葉はこうだ。

バスケツト程やさしいものはない。

来たりて楽しめ?

パスケット程苦しいものはない。

来たりて苦しめ!(畑記)