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【或る先輩の想い出】追補版

(1)85年史は、下記のURL、又は、蔵前工業会のホームページにあるバスケ同窓会のサイトからご覧いただけます。実は、私の管理がルーズでDropboxとの契約がクラウド業界の契約条件変更に対応できずに、暫く、機能していませんでしたが、前歴史担当幹事の青田さんと山本副会長の御尽力で、回復しました。歴史は既知ですが、既知のなかの未知は、イノベーションのための宝庫のひとつです。

(2)私の投稿について、会員有志から、おほめのめの言葉を頂戴しています。お礼とともに、歴史の知識を活用して、Let's Enjoy
Agingの推進をお勧めします。

(3)浅野さんは、21世紀の初めに、お亡くなりになりました。

(4)今年の賀詞交歓会で、或る副学長が私の名刺を見て、高校、大学、会社のバスケット同窓会の記載を見て、「会社でもバスケしていらっしゃったのですか」と呆れた顔でいいました。会社に限らずとも、折角覚えたバスケで、人生を豊かにする方法はいくらでもある時代だと思います。

鹿子木 基員

バスケ部同窓会の皆様へ

新聞記事から偶発した連想を紹介します:

日産のゴーンさんは私の履歴書(今月の日経朝刊の連載)で、1998年、ルノーのトップに命じられて、日産本社を訪問し、当時の日産の首脳7人に、或るルノーの経営手法について、3時間のプレゼンをしたことがあると書いている。この記事を見て、私は浅野さんを思い出した。浅野さんは、当時、日産の首脳の一人だったからである。浅野さんは、ゴーンに会ったか、会ってないか、は、特に重要ではない。只、蛇足ながら、重要だから、付け加えると、当時の日産の塙社長は、このプレゼンを聞いて、ゴーンさんに惚れ込み、ルノーのトップに、提携会社のトップにゴーンさんを派遣する等に強く要請したそうだ。

浅野重則(1956年機械卒・1955年主将)さんは、バスケットで県代表を争う香川県立観音寺一高出身で、私とは3年間一緒にプレーした。小柄だが、優秀なガードで、すべての点で名人芸を誇っていた。浅野さんの年度に香川県代表になったのは、高松一高で、東京で開催された国民体育大会で準決勝まで進んでいたのを、私は見ているので、浅野さんが語る高校時代の活躍ぶりを良く理解できた。当時は、練習や部活の態様が、今とは違って、練習日は水曜日と土曜日の放課後、しかも、部員はそれぞれ、アルバイトや、上級生になると研究室の行事や卒論作業とに時間調整があって、各人が調整して部活に参加していたが、浅野さんは、そういう流動的なスケジュールの中でも、自分のコンディションやスケジュールの調整をキチンとされていたのが印象に残っている。プレーの面で、沢山お世話になったが、点を取る役目だった私にパスを沢山供給してくれたのが浅野さんだ。
卒業後は、主として、日産の追浜工場で活躍して偉くなり、当時10年以上経営不振が続いた日産グループのなかで、日産車体の社長を務められた。
現役の活動支援にも熱心で、今ならホームカミングデイといっている行事には数多く参加された。2000年12月9日に、原コーチが采配を振るって、小泉主将以下、高居、信太、柳沢、青木、香川、宮本、三瓶らのチームで、昇格を果たした際に、100年記念館で催した祝勝会にも参加されている。幸い、その時の写真が、東工大バスケットボール部85年史の94ページに掲載されている。この会は、2代目会長の故滝島さんと、私や岡安さんの発案で、原さんと相談して行ったもので、これを機縁として、現在の同窓会が組織化された。
長生きすると、モウロクが進むが、一方で、長い時間のなかでの経験が豊富になり、若い人にはとてもなしえない脈絡を見つけて楽しむことができるのは嬉しいことだ。

その若い人も、これから年を取って、もしかしたら100歳近くまで生きるのかもしれない趨勢にある。諸々に智恵を絞って、幸せな人生を創造していかれることを祈るものである。

2月5日の新年会で、多くの同窓生と会えるのを楽しみにしております。

鹿子木 基員