ページ別アクセスメニュー
Page 1 ▲表紙
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∽ ∽ ∽ ∽ ∽
「へばったら頑張れ!」
日本バスケットボール協会技術顧問・武蔵高校)
(「新体育」昭和四十六年(1971)発行の
疲れないうちは、誰もが頑張るから、自分も自然に頑張る。
みんなが疲れて、頑張らなくなったときに、頑張れば、勝つチャンスがある。
注)畑 敏雄先生の実兄、ミュンヘンオリンピック日本チームのヘッドコーチ、
ご兄弟は互いに敬愛して居られました。
】 鹿子木 基員(同窓会々長)
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畑 龍雄
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注)
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「バスケットする心」 より)
解説
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1930年卒業アルバム
(杉田啓氏(1961年卒)提供)
革表紙の立派な装丁
創設期の部の活動
1930年卒業アルバムの1ページに
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籠球部の紹介がある
最近の部の活動
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2012年入替戦(対群馬大)
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87対52の大差で勝利
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勝利のすぐ後で
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4部昇格祝勝会(於大岡山 蔵前工業会館ロイヤルブルーホール)
東京工業大学バスケットボール部の歴史活動の開始と
年史発行のご挨拶
5
東京工業大学バスケットボール部の歴史
記録・活用する活動を始めまして、最初の
報告を御覧頂くことになりました。調査の結
果を踏まえて「85 年史」といたしました。
三島学長からは、お祝いのメッセージを戴
きました。有り難うございました。
私たちは、20113 月の東日本大災害か
ら、歴史に学ぶことと人々の絆の大切さを教
えられて、この活動を始めました。
バスケットという身体機能を多様且つ精
妙に使って競い合う競技に青春の時間を投
入した体験を共有する人々が、歴史を共有す
ることから人生の幸福度向上のために役立
つ価値が創造されると信じて、この活動を始
めました。知的・精神的財産として、活用さ
れ発展していくことを祈念しております。
私自身、中学三年から畑龍雄先生のもとで
バスケットを始め、「へばったら頑張れ」を
学業や仕事、並びに家庭生活の座右の銘とし
ております。東工大では、畑敏雄先生、須藤
六郎先生や石坂コーチ、鋭いヒントを下さっ
た池田敏雄先輩の薫陶を受けました。一言で
いうと、「楽しむとは、全力で何かをやるこ
と」とバスケットから教えられたといえます。
私は、現役に「東工大のバスケットの道」を
究め、開拓すること!を勧めます。いろいろ
な面で工夫して、道を開拓して欲しいもので
す。それが、一生の楽しみを創りだしてくれ
るからです。
歴史についての活動は、膨大な情報・資料
を扱いますので、クラウドなど、情報システ
ムを出来るだけ活用しました。発刊もウェブ
出版を中心にしました。ICT 素人集団の活
動参加者にとっては、挑戦でしたが、よい学
習の機会にもなりました。より本質的な効果
は、情報システムを使うことにより、この活
動を一過性ではなく継続性のある活動にす
る仕組みが出来たことです。活動は、現在の
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同窓会第 3 代会長
鹿子木 基員
活動、その記録から始まり、その収集、保管、
編集、発信、フォローアップから構成されます。
そして、その各プロセスごとに、活動と活用の
道があるわけです。
現在の活動の記録は、歴史資料の源という認
識も重要です。現役のホームページや合同のメ
ーリングサイトに、刻々発生する記録は蓄積さ
れます。
項目別に、特記事項は次の通りです。
創部の歴史史料:現役時代マネジャーとして
活躍した杉田啓(1961 年卒)さんが、父上の卒業
記念アルバム(1930)の中に創部時代のバスケ
ット部の写真を見つけました。その資料を基に、
科学史ご担当の道家先生が大学に保管してあっ
た資料の中から、畑敏雄先生が書いた籠球部十
年史を見つけて下さいました。この史料等から、
創部時期を 19291 月と特定することが出来
ました。東京工業大学が発足した 19294
に、わずかに先立つわけです。これに基づき今
回の発刊は、「東京工業大学バスケットボール部
85 年史」としました。
2012 年現役チームの活躍:秋のリーグ戦、5
50 有余校で上位を占めて入替戦で快勝、4
昇格を決めました。
この活動に直接・間接参加された全会員の皆
さまに、深い感謝を捧げますとともに、今後、
同好の方々の活動が続く限り、歴史活動も継続
して発展するようにお願いいたします。
東京工業大学バスケットボール部 85 年史
目 次
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東京工業大学バスケットボール部85年の
歴史報告書発行のご挨拶…………………………… 鹿子木 基員
東京工業大学バスケットボール部85年史の発刊に寄せて……………… 三島 良直 1
年史発刊に寄せて……………………………………………………………… 岩永 昭二 2
バスケットボールとの係わり………………………………………………… 滝島 敏男 3
東京工業大学バスケットボール部歴史年表………………………………… 岡安 彰 5
資料から読み解く篭球部の創設期…………………………………………… 横山 功一 7
(東工大学友会十年史(昭和四-十四年)(163-165 ページ)籠球部
-畑 敏雄先生が書いた最初の歴史書-…………………………… 畑 敏雄 13)
1945~1964年頃の活動……………………………………………… 鹿子木 基員 23
部長 6 年・監督 27 合わせて 33 年!須藤六郎先生の時代 ………… 鹿子木 基員 27
バスケットボールの思い出…………………………………………………… 松原 光一 28
石坂高志氏について…………………………………………………………… 松原 光一 30
石坂高志コーチの思い出……………………………………………………… 鹿子木 基員 31
横山弘氏へのインタビュー…………………………………………………… 杉田 啓 33
体育館新設こぼれ話…………………………………………………………… 星野 仁美 36
東工大バスケ・昭和35年卒の時代………………………………………… 川又 元夫 37
大学時代のバスケットボール………………………………………………… 渡辺 雅大 39
昭和37年度の活動及び同期のチームメート……………………………… 八嶋 建明 41
【写真】1933~1965年頃の思い出………………………………………………… 43
1965~1985年頃の活動……………………………………………… 八嶋 建明 52
東工大バスケ85年史への「お祝いの言葉」「我が歩み」…………………伊藤 順藏 55
伊藤順蔵さんとの思い出 ― ― 専修大学に勝利した感動― ― ……………福島 正之 58
バスケットOB・歴代役員への寄稿依頼に当たって……………………… 郷司 正和 60
合宿の思い出…………………………………………………………………… 木村 正孝 62
【写真】1966~1973年頃の思い出………………………………………………… 65
自主的な部活動を見守って…………………………………………………… 大野 隆造 69
東工大コーチ時代の想い出…………………………………………………… 立花 雅男 71
東京工業大学バスケットボール部活動への雑感…………………………… 冨田 博幸 73
95年度コーチ時の思い出…………………………………………………… 井上 英彦 75
2000 年度5部優勝・昇部と祝勝会……………………………………………小関 伸夫 78
2012 年度4部昇格と祝勝会……………………………………………………横山 功一 81
【写真】2000~2011年頃の思い出………………………………………………… 85
参考資料………………………………………………………………………………………… 108
あとがき………………………………………………………………………………………… 109
【補稿】初版リリース後の寄稿……………………………………………………………… 111
増補版の発行に際して………………………………………………………………………… 112
「東京工業大学バスケットボール部85年史」を拝見して………………… 岩永 昭二 113
東京工業大学バスケットボール部 今と過去と未来…………………………中尾 圭佑 114
東京工業大学バスケットボール部
史の発刊に寄せて
三島
85
東京工業大学 学長
このたび東工大バスケットボール部同窓会
85 年史を編纂し・発刊されると伺い一言
お祝いを申し上げます。東工大バスケットボ
ール部が創設された年については正確なこと
は分からないとのことですが、1929 年の第 5
回明治神宮篭球大会に出場したときの貴重な
写真が残っているためにこの頃であろうと推
定されているとのことです。本学の前身であ
る東京高等工業学校は 1923 年の関東大震災
により蔵前校舎を焼失し、1929 年に大岡山に
移って同時に東京工業大学に昇格したことを
思えば、バスケットボール部はほぼ本学の大
岡山における歴史と重なっていることになり
ます。この間の部の歴史編纂に当たり、OB
の皆さま方の献身的なご努力に敬意を表する
次第です。
さて本学は我が国最大の理工系国立大学法
人ですが東京工業大学としての三代目学長と
して 1944 年に就任した和田小六先生による
- 1 -
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良直
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__rendered_path__78
「人文系教育の充実」を主とした教育改革は、
爾来楔型教育として生き続け、理工系であっ
ても人文系の教養を持ち合わせた人材の輩出
を使命とする本学の大きな特徴となっていま
す。これに加えて東工大においては学生のサ
ークル活動が学生の人間形成に大きな役割を
担っています。特に体育会系の部活動は強靭
な肉体と精神力の修養において非常に特徴的
であり、ややもするとひ弱な印象をもたれる
理工系学生にとって得るものは大きいと思い
ます。これに加えて本学バスケットボール部
は部の運営自体をすべて学生が取り仕切るこ
とを
旨としている点も素晴らしいと思います。
昨秋、部は入替戦に勝って 4 部への昇格を
果たしたと伺いました。85 年の歴史を踏まえ
てさらなる前進を部員・OB 一同で目指して
いただくことを祈念してお祝いの言葉とさせ
ていただきます。
年史発刊に寄せて
会初代会長
昭二
- 2 -
同窓
1951 年卒 岩永
昔の話で恐縮ですが、第
2
次世界大戦終戦
後、関東大学リーグの再開を企画し、
7
大学
が参加し、本学も中学高校時代より名センタ
ーとして知られた池田敏雄先輩が在学中で
したので、
1
部として推薦された
6
校の中に
()
名を連ねました。しかし、メンバー員数が足
りず、辞退する破目になった様で
1
部在籍の
記録が残せず残念に思います。
私は昭和
23
年に入部しましたが、泥のコ
ートしか無く、
2
年間は部員が延
8
名しかお
らず、学連リーグ戦で
2
部をキープするのが
やっとの状態でした。しかし、
3
年目にベテ
ランが
6
名入部してくれ、ポジションも固定
化さ
れ、
F
西迫、横山、
C
滝島、
G
松原、
柴家
(
控え
大橋、王、郭、小生
)
の布陣で、
夏休みには長野市合宿も行い、須藤監督のも
とで試合に臨みました。関東大学トーナメン
ト大会では法政大と対戦し、激しい接戦とな
り、主要メンバーが
5
ファウルで退場する有
様でしたが、控えの留学生、王君、郭君が期
待以上に活躍してくれ、勝利することができ
ました。
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卒業後は、会社の方のバスケット部作り等
で、大学には御無沙汰していましたが、友人
の息子が「練習とはどんなものか見たい」と
云う事で、須藤さんにお願いしてお邪魔した
時には、北の方に新しい体育館が出来、鹿子
木現会長が練習のリーダーで指導しておら
れました。
そして
11
年前、会長をお引受けし、久方
振りに大学を訪問した際には、コート
2
面の
派な体育館が出来て居り、大勢の部員が効
果的な練習に励んでおられ、隔世の感がいた
しました。学生諸君にはこの好環境のもとで
一層の精進を期待いたします。
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以上
バスケットボールとの係わり
バスケットボールは小学校の担任の先生
が鎌倉師範でやっておられた関係で小学校
4
年からやり出した。
6
年の時に神奈川県大
会で優勝したこともある。そんな関係で中学
都立八中、現小山台高校
1951
年卒 岩永
)
でも高校
昭二
(
旧制松
本高校
)
でも続けた。インターハイ
(
全国高等
学校大会
)
に神田駿河台の明治大学
4
階のコ
ートでやったことを懐かしく憶えている。
東工大に入って特にバスケットをやるつ
もりはなかったが、岩永さん達に執拗に誘わ
れて入部した。当時は関東大学バスケットボ
ール連盟の
2
(6
)
で、東工大の部員は
8
人ぐらいであった。
1
部は
6
校で所謂
6
大学
だが、文理大
(
現筑波大
)
が王者の為
1
校だけ
2
部に追い出されていた。
関東大学リーグ戦では
5
人集まりきれな
()
かったら困るなと何時も心配しながら試合
に臨んでいた。成績は大体
3
4
位で東京商
(
現一橋大
)
がよきライバルであった。当時
の日本を代表するチームには、東京学士クラ
ブなどがあり鹿子木さんのお兄さんもそこ
に居られた。
東工大には池田敏雄さん
(
故人
)
OB
で富
士通に居られ、時々練習を指導しにきてくれ
た。何しろ屋内コートなど東工大に存在しな
い時代であり、もっぱら他チームと試合する
1951 年卒 岩永 昭二
ことで練習にした。
そんな頃、長野中学出身の故横山弘君がア
レンジして長野で合宿したことがある。池田
さんは富士通須坂工場へ態々(わざわざ)
張で行って、コートへ来てはバスケット技術
を色々教えてくれた。彼は市立一中(現九段
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- 3 -
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同窓会第 2 代会長
1952 年卒 滝島 敏男
高校) 出身で、その OB で作る一球会のメン
バーはオールジャパン級の力を持っていた。
明治大学のコートでの試合で、一球会はフロ
ントコートにボールを持ち込むと、ガードが
そこでパスをし続ける徹底的なディレード
オフェンスをやり、少ない点数で時間を稼ぎ
試合の最後に勝負を決着する。観戦に来られ
た日本バスケットボール協会名誉会長の高
松宮はコートサイドであれは何をやってい
るのかとお付きの人に尋ねられたそうだ。
24 秒ルールのなかった時代のよき攻撃方法
であった訳だ。
この後の頃印象に残ることはハワイのバ
スケットチームが来訪したことである。芝に
あった日活スポーツセンターで日本チーム
を相手に試合があった。彼等の新戦法は 5
人でフロントコートへ入ると徹底したロー
リングオへンス、即ち 5 人でフロントコート
に入るや半円形の動線を描きながらボール
を廻し続け、隙があればゴール下に切れ込み
シュートするという、今迄見たこともないよ
__rendered_path__62
うな戦法を披露した。
その後
20
年ぐらい経って、その同じ連中
が再来日して最初に来た時に泊まった目黒
の雅叙園で日本バスケットボール協会の人
達と懇親会をやった。これには私も縁があっ
て出席したことを憶えている。
1952 年東工大を卒業して日本鋼管(
JFE スチール)へ入社した。当時の日本は、
朝鮮戦争の兵站基地の特需業務として製造
業が一斉に息を吹き返した頃だ。当然バスケ
ットボール部へ入部した私だが、面接した役
員の指示で建設部に配属された。アメリカか
ら新しい圧延設備等を輸入しその建設や稼
動準備をやった。アメリカのインチサイズの
図面をミリサイズに換算して施工業者に発
注するのも結構大変な仕事で、バスケットど
ころではなくなってしまった。残業が月に
200 時間以上にもなった次第だった。その後
稼動が近づくと、作業員を帯同してアメリカ
の製鉄所に半年以上も実習に行ったりした。
日本鋼管のバスケットは強くオールジャ
パンを何遍も取ったりした。然し会社が合併
して JFE スチールになった時に、最早時代
が変わるべきだということで休部になって
しまった。そんな関係で、その後矢張り休部
になったよきライバルの日本鉱業(現 JX
鉱日石金属)とは意気統合して今だに年一回
の懇親会を続けているわけだ。
ここでまた池田敏雄さんのことに戻る。何
しろ彼は頭が素晴らしくよく、かつ破天荒な
人格の持主で、富士通に入社するやコンピュ
ーターに関係し、そしてディジタル方式に着
目した。IBM の日本席巻を破壊せねばなら
ないと叫んだ。バスケットで東工大に来た時
に大学の図書館で一生懸命リレー関係の文
献を調べていたのを憶えている。この辺のこ
とは田原総一朗著の“ 日本コンピューターの
黎明富士通池田敏雄の生と死-” 文春文庫
に詳しく書かれている。
その後何年か経って、私が日本鋼管のニュ
ーヨーク事務所に勤務していた 1974 頃、現
地で池田敏雄の死去記事が日本の新聞記事
に載っているのを見て彼の終蔦を知った次
第である。
以上
※滝島 敏男 氏はこの寄稿を頂いた後、2012 9
22 日に逝去されました。
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- 4 -
東京工業大学バスケットボール部歴史年表
全日本学生篭球連盟(発足)
関東高等専門学校リー グ結成
第1回関東高等専門学校リー グ優勝
愛好者ニヨリ「籠球部」創部1929.1
関東大学リーグ2部に加盟
関東大学リーグ2部4位
部活動低調リーグ戦不参加
木下正雄
 関東大学リーグ再加盟(記録ナ シ)
関東大学ハ ゙ス ケットホ ゙ー ル 連盟復活
関東大学ハ ゙ス ケットホ ゙ー ル 新連盟発足
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和暦
西暦
大学変遷
__rendered_path__199
明治
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14
1881 東京職工学校(創立)
__rendered_path__200__rendered_path__211
23
1890 東京工業学校(改称)
__rendered_path__201
34
1901 東京高等工業学校(改
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39
1906
「蔵前工業会」設立
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大正
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12
1923 国会で大学昇格決定
__rendered_path__201
13
1924
関東大震災で昇格延期
本校大岡山に移転
__rendered_path__200
昭和
__rendered_path__1__rendered_path__201
3
1928
__rendered_path__200
4
1929
東京工業大学(旧制)
昇格(1929.4)
__rendered_path__201
5
1930
__rendered_path__200
6
1931
__rendered_path__201
7
1932
__rendered_path__200
8
1933
__rendered_path__201
9
1934
大学本館竣工
__rendered_path__200
10
1935
__rendered_path__201
11
1936
__rendered_path__200
12
1937
__rendered_path__201
13
1938
__rendered_path__200
14
1939
__rendered_path__201
15
1940
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16
1941
__rendered_path__201
17
1942
__rendered_path__200
18
1943
__rendered_path__201
19
1944
__rendered_path__200
20
1945
__rendered_path__201
21
1946
__rendered_path__200
22
1947
__rendered_path__201
23
1948
__rendered_path__200
24
1949 東京工業大学(新制)
__rendered_path__201
25
1950 本館前卒業記念桜植樹
__rendered_path__200
26
1951
__rendered_path__201
27
1952
__rendered_path__200
28
1953
大学院設置
__rendered_path__201
29
1954
__rendered_path__200
30
1955
__rendered_path__201
31
1956
体育館竣工
__rendered_path__200
32
1957 東京工業大学歌制定
__rendered_path__201
33
1958
__rendered_path__200
34
1959
__rendered_path__201
35
1960
__rendered_path__200
36
1961
__rendered_path__201
37
1962
__rendered_path__200
38
1963
__rendered_path__201
39
1964
__rendered_path__200
40
1965
東工大バスケットボール部
大学リーグ動向
__rendered_path__32__rendered_path__199
昭和3年の活動と矛盾有り
__rendered_path__202
関東大学篭球連盟(改組)
__rendered_path__62__rendered_path__203
リーグ退会
__rendered_path__101__rendered_path__202
再加盟
バスケットボール部
活動/ 戦績
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第5回明治神宮大会予選出場
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第2回関東高等専門学校リー グ優勝
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関東大学リーグ2部4位
__rendered_path__204
関東大学リーグ2部5位
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戦争の為活動中止
__rendered_path__204
戦争の為活動中止
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戦争の為活動中止
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春旧リーグ1部6位
__rendered_path__204
秋旧リーグ1部6位
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春旧リーグ2部2位
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秋旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部5位
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旧リーグ2部5位
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旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部5位
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旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部4位
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旧リーグ2部3位
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旧リーグ2部5位
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旧リーグ2部5位
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旧リーグ2部3位
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旧リーグ2部6位
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旧リーグ2部5位
__rendered_path__204
旧リーグ2部5位
__rendered_path__204
旧リーグ2部6位
部長
監督
ヘッド
コーチ
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木下正雄
__rendered_path__199
木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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木下正雄
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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須藤六郎
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須藤六郎
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須藤六郎
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須藤六郎
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須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
鈴木解雄
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
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畑 敏雄
須藤六郎
伊藤順藏
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畑 敏雄
須藤六郎
伊藤順藏
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- 5 -
学生コー チ
主将
主務
同窓会
会長
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持田勇次
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関根 巌
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志賀龍夫
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立石正夫
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池田敏雄
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大塚正哉
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岩永昭二
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岩永昭二
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滝島敏男
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柴家 茂
阿部宏正
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横山 弘
藤本喜弘
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太田 晴康
阿部宏正
藤本喜弘
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太田 晴康
浅野重則
青木公治
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鹿子木基員 小林昭夫
青木公治
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鹿子木基員 小林正知
星野仁美
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井田 栄三
井田栄三
吉田豊彦
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川又元夫
杉田 啓
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渡辺雅大
大塚健司
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乙幡悦男
小森田興三
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八嶋建明
高谷晴生
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古川 哲郎
川村高星
守屋信夫
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土屋武彦
上島康弘
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武田欣一
北村邦夫
世の中の動き
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大日本帝国憲法1889/ 日清戦争1894- 95
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ノーベル賞創設1901
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ライト兄弟動力飛行1903
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日露戦争1904- 05
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関東大震災1923
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第一次世界大戦勃発1914- 18
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フレミング:ペニシリン発見1928
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清水トンネル開通
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フェライト発明1930:加藤、武井
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合成ゴム発明
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電子顕微鏡発明
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ホイットル:ジェットエンジン成功
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ウランの核分裂発見
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第二次世界大戦勃発
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太平洋戦争勃発/ 関門トンネル開通
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ワクスマン:ストレプトマイシン
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国際連合設立
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第二次世界大戦/ 太平洋戦争終戦
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日本国憲法公布
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トランジスター誕生:ベル研
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湯川秀樹 ノーベル賞
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サンフランシスコ講和条約調印
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日本でテレビ放送開始/ エベレスト初登頂
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原子力発電実用化
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数値制御機械開発、FACOM100開発
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日本、国際連合加盟
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スプートニク1号打上
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レーザー誕生
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有人人工衛星ボストーク成功
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青函トンネル開通
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東海道新幹線開通、東京オリンピック
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YS11就航
和暦
西暦
大学変遷
大野隆造
大野隆造
立花雅男
高居 康介
柳沢英太
井上(旧姓深川)聡子
岩永昭二
岩永昭二
スマトラ沖地震、中越地震
5部渋谷エリア一次リーグ2位
大野隆造
大野隆造
金近 望
岩月栄治
玉野沙織
5部渋谷エリアBブロック3位
大野隆造
大野隆造
田口 達也
鴇田佳哉
鈴木理江
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東工大バスケットボール部
大学リーグ動向
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41
1966
旧/ 新連盟合併
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42
1967
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43
1968
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44
1969
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45
1970
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46
1971
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1972
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48
1973
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49
1974
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50
1975
長津田地区竣工
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51
1976
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52
1977
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53
1978
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1979
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55
1980
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1981
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1982
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1983
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1984
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1985
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61
1986
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1987
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63
1988
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平成  1
1989
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2
1990
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3
1991
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4
1992
新体育館竣工
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5
1993
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6
1994
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7
1995
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8
1996
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9
1997
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10
1998
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1999
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12
2000
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13
2001
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14
2002
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15
2003
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16
2004
国立大学法人
東京工業大学
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17
2005
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18
2006
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19
2007
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20
2008
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2009
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22
2010
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23
2011
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24
2012
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25
2013
バスケットボール部
活動/ 戦績
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3部Aリーグ9位
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3部リーグ11位
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3部リーグ5位
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3部Bリーグ4位
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3部Bリーグ2位
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3部Bリーグ4位
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3部Bリーグ4位
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3部Bリーグ2位
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3部Bリーグ2位
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3部Bリーグ3位
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3部Bリーグ3位
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3部リーグ11位
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3部リーグ11位
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3部リーグ10位
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4部リーグ13位
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3部Dリーグ4位
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並列3位リーグ6位
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並列リーグ59校中32位
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並列リーグ59校中45位
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並列リーグ60校中39位
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並列リーグ63校中44位
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並列リーグ63校中41位
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並列リーグ62校中36位
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6部Cリーグ2位
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6部Hリーグ5位
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6部Bリーグ3位
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7部Bリーグ優勝
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6部Bリーグ2位
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6部Bリーグ4位
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6部Aリー グ優勝
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5部Aリーグ4位
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5部Aリーグ6位,
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5部Aリーグ8位
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5部13位
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5部Aリーグ優勝
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3部リーグ11位
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4部中位リーグ4位
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4部リーグ14位
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4部リーグ20位
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4部リーグ19位
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4部リーグ18位
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5部渋谷エリア一次リーグ
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5部渋谷エリアBブロック
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一次リーグ2位
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5部渋谷エリアAブロック全勝
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渋谷エリア優勝
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5部渋谷エリアBブロック全勝
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渋谷B上位リーグ全勝 入替戦勝利
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4部リーグ
部長
監督
ヘッド
コーチ
学生コー チ
主将
主務
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畑 敏雄
須藤六郎
伊藤順藏
稲垣達敏
松田 勲
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畑 敏雄
須藤六郎
伊藤順藏
稲垣 達敏
細入誠一
長田 勇
__rendered_path__15
畑 敏雄
須藤六郎
伊藤順藏
横山功一
岡 國彦
__rendered_path__15
畑 敏雄
須藤六郎
伊藤順藏
清水信朗
田口省三
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畑 敏雄
須藤六郎
伊藤順藏
郷司正和
林 二郎
__rendered_path__15
畑 敏雄
須藤六郎
佐藤 修三
蓮 秀樹
高久 進
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畑 敏雄
須藤六郎
清水良一
藤本(旧姓大野)敦子
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須藤六郎
服部 賢
廣岡三男
藤本(旧姓大野)敦子
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須藤六郎
服部 賢
原 辰次
石川雅邦
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須藤六郎
服部 賢
原 辰次
渋谷 哲
__rendered_path__250
須藤六郎
服部 賢
井上 晴通
和泉原芳一
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須藤六郎
服部 賢
桑田 康男
玉木淑文
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須藤六郎
八嶋建明
玉木 淑文
杉田和彦
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八嶋建明
八嶋建明
臼田 裕
山里泰人
__rendered_path__250
八嶋建明
八嶋建明
福島 常浩
川口 滋
__rendered_path__250
八嶋建明
八嶋建明
池田 正弘
山本雅之
下出浩治
__rendered_path__249
八嶋建明
八嶋建明
大竹 明
森 松倫
高橋由仁
__rendered_path__249
八嶋建明
八嶋建明
森 松倫
下出浩治
堺 和宏
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八嶋建明
八嶋建明
下出 浩治
高橋由仁
冨田博幸
__rendered_path__250
八嶋建明
原 辰次
世利 卓也
高橋欣三
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八嶋建明
原 辰次
高橋 欣三
冨田博幸
金子健太郎
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八嶋建明
原 辰次
冨田 博幸
鈴木隆三
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八嶋建明
原 辰次
鈴木 直明
金子健太郎
大家正嗣
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八嶋建明
原 辰次
関口淳之輔 菊池 裕
菅野 寛
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八嶋建明
原 辰次
伴野 秀邦
大嵜美紀
関野正宏
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八嶋建明
原 辰次
大嵜 美紀
神山健司
鈴木幸生
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八嶋建明
原 辰次
神山 健司
小川明輝
吉田忠司
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八嶋建明
原 辰次
大野 信吾
佐々木哲也 岡本(旧姓小嶋)香恵子
__rendered_path__249
八嶋建明
原 辰次
佐々木哲也 井上英彦
中村星一
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八嶋建明
原 辰次
井上 英彦
岡本 理
赤沼 啓志
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八嶋建明
原 辰次
岡本 理
斉藤芳久
齋藤(旧姓志村)昌美
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八嶋建明
原 辰次
斉藤 芳久
井上智春
関口(旧姓平田)瑞絵
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八嶋建明
原 辰次
井上 智春
広瀬 純
結城理恵
谷口(旧姓石田)佳代
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八嶋建明
原 辰次
広瀬 純
水谷龍明
神谷有香
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原 辰次
原 辰次
水谷 龍明
小泉 雄
栗谷(旧姓小山)陽子
熊谷光子
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原 辰次
原 辰次
立花雅男
小泉 雄
高居康介
青木(旧姓川合)美保
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大野隆造
大野隆造
立花雅男
柳沢 英太
香川卓也
松野梨沙
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大野隆造
大野隆造
関野正宏 香川 卓也
塚越貴史
山下雅美
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大野隆造
大野隆造
関野正宏 塚越 貴史
岩崎遼平
陸 瑩
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大野隆造
大野隆造
関野正宏 舛元 龍一
藤井脩祐
井上麻衣
中野智恵
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大野隆造
大野隆造
藤井 脩祐
恩田 佳
津田さやか
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大野隆造
大野隆造
鴇田 佳哉
鈴木雄太
鈴木理江
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大野隆造
大野隆造
建部 大輔
井上智晴
石田 愛
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大野隆造
大野隆造
中岡 陽一
小路智也
小谷麻美子
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大野隆造
大野隆造
西川 潤平
中尾圭佑
荻谷太平
__rendered_path__250
- 6 -
同窓会
会長
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岩永昭二
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滝島敏男
__rendered_path__250
滝島敏男
__rendered_path__251
滝島敏男
__rendered_path__250
滝島敏男
__rendered_path__251
滝島敏男
__rendered_path__250
鹿子木基員
__rendered_path__251
鹿子木基員
__rendered_path__250
鹿子木基員
__rendered_path__251
鹿子木基員
世の中の動き
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ボーイング747初号機
__rendered_path__16__rendered_path__254
アポロ月面着陸、コンコルド超音速飛行
__rendered_path__254
大阪万博、国産人工衛星「おおすみ」
__rendered_path__254
札幌オリンピック
__rendered_path__254
沖縄海洋博
__rendered_path__254
ソニーウォークマン誕生
__rendered_path__254
スペースシャトル打上「コロンビア」
__rendered_path__254
東北新幹線開通
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科学万博つくば
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リチュウムイオン電池:吉野
__rendered_path__254
青函トンネル開通
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ベルリンの壁崩壊
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H- Ⅱ ロケット打上
__rendered_path__254
阪神大震災
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長野オリンピック
__rendered_path__254
国際宇宙ステーション建設開始
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白川英樹ノーベル化学賞
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NY世界貿易センタービル崩壊
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東日本大震災
資料から読み解く籠球部の創設期
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バスケットボール部の OB 名簿を見ると一
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番古い方は持田さんで、卒業年は 1929 年と
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なっており、部の歴史はかなり長いことがう
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かがえるが、「正式には部がいつ誕生したの
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か、そのころの様子はどんなだったのであろ
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うか」というのは、皆の関心事であった。
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そこで、いろいろ資料を探し、推測するう
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ちに、
[
東工大学友会十年史
(
昭和四-十四年
)]
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(1939)1)に「籠球部」の紹介文があり、創
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部の時期やその後 10 年間の活動の様子が描
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かれていることが分かった。文末に(畑記)
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あることから、執筆者は畑敏雄先生(1940
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)と思われる。
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それによると、創部は、1929(昭和 4)1
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月であったこと、そしてそれ以前は、蹴球部
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の中の愛好者のクラブとして活動していたと
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なっている(ちなみに大学への昇格が 1929
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(昭和 4)4 月であったことから、創部はそ
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の直前の東京高等工業学校時代であった)
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(1)「部としての籠球部の歴史は大學昇格の日
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より僅かに早く昭和四年一月に始まる。それ
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まで蹴球部内に成長してきた愛好者のクラブ
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が一月の評議会の議決を経て正式に籠球部に
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昇格したのである。」
[
東工大学友会十年史
(
__rendered_path__5
和四-十四年)](163-165 ページ)
__rendered_path__5
__rendered_path__5
創部についての確かな情報が得られ、今年
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(2013 ) 84 年の歴史があるらしいことが
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分かった。これで疑問は解消されたように思
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われたのだが、歴史プロジェクトが進行する
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にしたがっていろいろな方々から情報や資料
__rendered_path__5
- 7 -
__rendered_path__1
__rendered_path__3
1969 年卒 横山 功一
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__rendered_path__5
が提供され、畑先生の文章を補強することが
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できるようになった。その中でも、直接創部
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に係る情報としては、バスケットボール部の
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部報第 3(1959(昭和 34)3 月発行) 2)(写真
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-1)に小島武先生(1930(昭和 5)年電気科卒)
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書かれている「蔵前篭球部創設時代の思い出」
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という一文があり、1927(昭和 2)年から
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1959(
昭和
4)
年ころの様子が紹介されている。
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(2)創部に関しては、「ちなみに、籠球部は
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昭和 3(1928)学友会の独立の一部として
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認められ・・・」2)とあり、学友会十年史の
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畑先生の記述よりも 1 年古いことになる。
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当事者であった小島先生のこの記述の方が
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他の資料との整合があり、そうすると、1928
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(昭和 3)年創部で今年(2013)年で 85 年の歴史
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があることになる。
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__rendered_path__5
ここまでにいろいろな情報や資料が集まっ
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たので、それらを基に創部前後の部の様子を
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詳しく知りたいと思い、集まったいろいろな
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資料を眺めてみた。
(3)1927 (昭和 2 )、陸上競技部の中に部屋
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住みをしていた篭球チームに多数の新人が入
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ってきて、自力で屋外コートを新設し練習に
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励み、9 月に明治神宮篭球大会関東予選に参
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加したが、六中に惜敗 2)
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(4)あくる 1928 (昭和 3 )2 月全日本選手権
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関東予選に初めて出場。第 3 回戦で明大に勝
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2)
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(5)1928 年の卒業アルバム 3)アウトドアコー
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トでの國學院とのゲーム写真がある。アウト
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ドアであったこと、ユニフォーム姿、このこ
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ろの対戦相手が、1校であるが、分かった。
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(6)1928 年春より関東専門学校リ-グが結成
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され、蔵前篭球チームは全勝優勝 2)1929
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の卒業アルバム 4)の写真に関東専門学校籠球
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リーグで外語、青山学院、横浜高工、高師な
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ど対戦して全勝したスコア記録がある。
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(7)1929 年の卒業アルバム 4)に学友会の一つ
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の部として籠球部の名前が見られる。卒業ア
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ルバムはたぶん 1929.3 であろうから、正式
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に籠球部に昇格した評議会の議決(19291
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)の時期が近いことを考えると、創部は昭和
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3 年とする小島武先生の記述 2)が整合する。
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(8)1930 年に東京高等工業学校から移行した
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東京工業大学専門部の機械科を卒業した杉田
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新之丞氏(杉田啓氏(1961 年卒)の父君)の卒業
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アルバム 5)(革表紙で厚さ 5cm くらいのずっ
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しりと重い立派なもので、表紙には
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KURAMAE」「1930」、中表紙には「東
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京工業大学専門部写真帖」とある)にある籠球
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部の写真(口絵写真)から、部長は木下正雄教
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(物理学教室 5))であったこと、またページ
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右下にある写真(写真-2)には、第五回明治神
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宮篭球大会東京府予選出場監督選手(16
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)の名前とポジションが写っている。
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wikipedia によると「明治神宮競技大会は、
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日本で 1924(大正 13)から 1943(昭和
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18)にか 14回にわたって行われた総合競
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技大会。現在の国民体育大会を創設するにあ
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- 8 -
たって影響を与えた。第 5 回大会は、1929
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(昭和 4)開催。」となっているので、写
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真に写っている、第五回明治神宮篭球大会は
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1929 年開催と考えられる。
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また、このメンバーが第二回関東高専リー
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グの出場選手でもあると書かれていて、この
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時点では大学リーグではなく、高専リーグだ
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ったことが分かる。
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ちなみに OB 会の会員名簿の一番古い方は
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持田勇次さん(1929)であるが、名前はこの写
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真にはない。次に古い岡田修一さん(1930)
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名前はあり、(電三)となっている。また 1931
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年卒の石川章一先生は(電二)となっており、
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この写真が 1929 年のものであり、それぞれ
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東京工業大学附属工学専門部の電気科三年生、
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二年生と推測される。
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(9)この当時の公式試合については、[東工大
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学友会十年史](1)の畑敏雄先生の文章 1)に、
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「当時の主な目標は全日本選手權大會、全国
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高専大會等の如き勿論であらうが、主として
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秋の関東専門學校リーグに全力が注がれてい
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た。しかし之れは蔵前が大學となると共に退
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いて、代つて昭和六年関東大學リーグ(二部)
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の一員となつた。」と記述されている。
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なお、関東大学バスケットボール連盟【リ
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ーグ変遷略年表】を見ると、関東大學リーグ
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の発足は 1933(昭和8)年であり、1931(昭和
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6)年時点では、全日本学生篭球連盟となって
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いる。ただし、【リーグ加盟校変遷年表】で
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は、1923(大正 13)年から連盟変更とは異なっ
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て連続的に書かれている。
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(10)関東大學リーグへの加盟は大学昇格から
2 年後の 1931(昭和 6)年。リーグ加盟校変遷
年表では、1931(昭和 6)年から 3 年間に【東
工大】の名前が見られる。ちなみに、この時
の2部のチームは東農大、千葉医大、中央大
と東工大の4校であった。また1部は、立教
大、早稲田大、慶応大、明治大、帝国大、商
大であった。
しかし残念なことに、1934(昭和 9)年には
活動不活発によりリーグ戦に参加せず[東工
大学友会十年史]1)。これと対応するように、
OB
名簿には
1934
37
年の卒業生がいない。
(11)1930(昭和 5)年の卒業アルバム 4)にある
写真には、ユニフォームの胸に KODAI
KURAMAE(東京高等工業学校時代の愛称)
の文字が読み取れる。東京高等工業学校の籠
球部 KURAMAE と東工大籠球部 KODAI
1 ページの写真に見られるが、「官立東京工
業大学の発足に伴い、従来の東京高等工業学
校および附設の工業教員養成所はそれぞれ東
京工業大学附属工学専門部、大学附属工業教
員養成所として残存し、在校生卒業の 1931
3 月をもって廃止となった。」[130 年史 6)
__rendered_path__54
p89]ということから、東京高等工業学校は大
学発足とともに東工大専門部となったので、
籠球部は形の上では東工大籠球部へ切り替わ
ったことになる。大学の初めての入学生は
1929 4 月、初めての卒業生は 1932 3
であった。
(12)1938(昭和 13)年関東大學リーグに復帰し
[東工大学友会十年史 p164]となっている
が、リーグ加盟校変遷年表には記載がない。
(13)東京高等工業学校が東工大専門部となり、
工業大学がスタートした時の様子を学生の目
で記したのが出川雄二郎さん(1930 機械卒、
1933 電気卒)による「一学生の出たらめある
記」[東工大 70 年記念誌](1951)8)であり、
その中に他の部とともにバスケットボール部
の様子が記されている。
(14)戦後、部長や監督を務められた須藤六
郎さんの名前は、部の名簿に見出すことが
できるが、旧制水戸高校時代インターハイ
で大活躍した。須藤六郎さんが大岡山で学
- 9 -
んだ頃は、戦時中でバスケットをする余裕
がない時代だった。畑? 雄さんの想い出の
記に、学内の有志を集めてバスケットをし
たという記載がある。
(15)創部に関する貴重な情報は、バスケット
ボール部の「部報」(資料 2、写真-1)からも
得られると(1)で述べたが、このプロジェクト
が進行する中で杉田啓氏(1961)から提供
いただいた「東京工業大学篭球部部報」(2
号~4 号、6 号~第 8 )は今から 5060
も前の昭和 30 年代の部の様子が分かる貴重
な史料である。手書き・ガリ版刷り・わら半
紙のような紙質で茶色に変色し劣化が進んで
いる 30~50 ページの冊子は手作りの温もり
が感じられる。現役を中心に、部長監督コー
OB の方々からの文章も加わり、原稿集め
に苦労したこと、発行の遅れのお詫びもあり、
バスケットボール部の歴史資料となっている。
資料
(1) 東京工業大学学友会十年史(昭和四-
十四年)](1939 年)
(2) 東京工業大学篭球部部報第 3 (昭和 34
3 月発行)
(3) 1928 年卒業アルバム
(4) 1929 年卒業アルバム
(5) 1930 年卒業アルバム
(6) 東京工業大学 130 年史(2011 )
(7) 関東大学バスケットボール連盟 80
の歩み
(8) 東京工業大学 70 年記念誌(1951 )
(9) 東京工業大学篭球部部報、第 2 (昭和
33 2 )4 号、6 号~第 8 (昭和
40 )
写真
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1
部報( 2 号~4 号、6号~第 8) ( 杉田啓氏[ 196
- 10 -
年卒] 提供)
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- 11 -
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バスケットボール部同窓会名簿から
写真- 2 第五回明治神宮篭球大会東京府予選出場監督選手の名前
東京高等
工業学校
東工大専
門部
東工大
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卒業年
学科 氏名
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昭 4
1929 応化
持田 勇次
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昭 5
1930 色染
稲村 耕雄
__rendered_path__72
昭 5
1930 電気
岡田 修一
__rendered_path__72
昭 5
1930 機械
金田 肇
__rendered_path__72
昭 5
1930 電化
小島 武
__rendered_path__72
昭 5
1930 応化
関根 巌
__rendered_path__72
昭 5
1930 機械
高松 喬
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昭 5
1930 機械
出川 雄二郎
__rendered_path__72
昭 5
1930 色染
戸田 隆治
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昭 5
1930 色染
長尾 福太郎
__rendered_path__72
昭 5
1930 電化
中村 良治
__rendered_path__72
昭 6
1931 建築
芦浦 義雄
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昭 6
1931 電気
石川 章一
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昭 6
1931 機械
木村 歓兵衛
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昭 6
1931 紡織
櫛部 三郎
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昭 6
1931 電化
酒井 豊三郎
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昭 6
1931 機械
高橋 親徳
__rendered_path__72
昭 6
1931 機械
橋本 治
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昭 6
1931 窯業
松島 貞雄
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昭 7
1932 建築
桐生 政夫
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昭 8
1933 建築
志賀 龍夫
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昭13
1938 応化
大石 直四郎
__rendered_path__72
昭13
1938 紡績
土志田 邦造
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昭14
1939 電気
立石 正夫
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昭14
1939 応化
谷口 豊吉
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昭14
1939 機械
野村 八郎
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昭14
1939 電気
福島 勇夫
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昭15
1940 応化
畑 敏雄
1930年卒業 東工大70年
アルバム
〇名前記載
〇名前記載 〇名前記載
〇名前記載 〇名前記載
〇名前記載 〇名前記載
〇名前記載 〇名前記載
寄稿
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
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- 12 -
学友会10年
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
〇名前記載
寄稿
__rendered_path__69__rendered_path__69__rendered_path__69__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__69__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__71__rendered_path__73__rendered_path__75__rendered_path__76__rendered_path__77__rendered_path__78__rendered_path__75__rendered_path__76__rendered_path__75__rendered_path__76__rendered_path__75__rendered_path__75__rendered_path__76__rendered_path__75__rendered_path__76__rendered_path__69__rendered_path__70__rendered_path__75__rendered_path__76Image_115_0Image_116_0Image_117_0Image_118_0Image_119_0Image_120_0Image_121_0
東工大学友会十年史(昭和四-十四年)(
敏雄先生が書いた最初の歴史書-
- 13 -
-畑
大學は早くも十年の齢を重ねてこゝにその歴史
を編まうとするに到つてゐる。われわれの籠球部
はしかしながらその母なる大學と同じに年をとつ
たとは言ひ得なかつた。創立早々蔵前から引き繼
がれた籠球部は十年後の今日も猶創立當時と同じ
嬰さと悩みと又同じ希望と明るさとを持つて胎動
を続けている。われわれには誇るべき戰績もなけ
れば語るべき伝統もない。年々歳々新しき部員が
新しきエスプリを以てバスケツトボールを遊戯し
て来たにすぎぬというのが真実であらう。
さればその十年の間に事実上部の活動を停止し
た空白の数年があつたとしても、敢へてその時代
の責任を追求する必要もなければ部の恥辱と考へ
る必要もない。それは籠球に對する工大學友の誠
に正直な關心の表示であるに過ぎないからである。
そしてそれは又選手制度を否定して一般學友のた
めのスポーツを標謗する本學運動部の當然のあり
方であると思ふのである。
然しながらこのことの是非は自ら別に論せられ
なければならない。スポーツの本質はそのバスケ
ツトボールたると否とを問わず、楽しむことにあ
るといふよりは寧ろ苦しむことにある。學生スポ
ーツに於て特に然る。選手制度が公式的に否定し
得ず否寧ろ大きな存在理由を有すると思はれるの
は、それが要求する献身と苦痛とによつてである。
之はスポーツマンにとつての第一義の道である。
之に對して、樂しむスポーツ、健康のためのス
ポーツ、社交のためのスポーツ等々というものが
存在するとすれば之はスポーツマンの第二義の道
163-165 ページ)籠球部
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1940(昭和 15)年卒 敏雄 先生
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である。而してわれわれの大學があらゆる角度か
らわれわれのために醸成しつゝある雰園氣は遺憾
ながらまさにこの後者のためのものでしかないや
うに思われる。籠球部の過去もこの埓外に多くを
出でなかつたことを告白しよう。しかも限りなく
籠球を愛し、スポーツ生活の第一義の道を憧憬す
ることに於て人後に落ちない熱心な部員がゐたこ
とも事実なのであるが。
部としての籠球部の歴史は大學昇格の日より僅
かに早く昭和四年一月に始まる。それまで蹴球部
内に成長してきた愛好者のクラブが一月の評議會
の議決を經て正式に籠球部に昇格したのである。
當時の主な目標は全日本選手權大會、全國高専
大會等の如き勿論であらうが、主として秋の關東
専門學校リーグに全力が注がれていた。しかし之
れは蔵前が大學となると共に退いて、代つて昭和
六年關東大學リーグ(二部)の一員となつた。当
時の記録中興味を引くものに夏季合宿がある。昭
和四年五年共に合宿を静岡の東洋モスリン工場の
附属コートで行つて、練習と見學とコーチと經費
節約と一石数鳥の案を實行した。もとより練習の
東京工業大学
- 14 -
ためには能率の良い計劃ではないが工科學生の一
つの面を見得て面白い。
その後仮眠すること三年、籠球愛好者のやむに
やまれぬ欲求が再結晶して復活の事が計劃された
のは昭和十九年も末であつた。
この殊動者の筆頭に成蹊高校出身の大石があり、
それを援けて土志田、野村、立石、谷口、福島等
の協力者があつた。現在の籠球部は之に引續く全
くの嬰兒である。十二年の内部充實時代についで
十三年は再び關東リーグ二部に加盟し、帰り新参
の威力ももの凄く慶應を除く他の全校を完全に紛
碎した。
本年はもとよりこのリーグ(二部)の優勝を狙
ひ日本籠球界の最高峰をうかゞふ意氣込みを以て
練習を積んでゐるのである。
バスケットボールを技術的に見ると甚だ難しい
競技である。他の如何なる競技よりも細いテクニ
ツクと微妙な頭脳とコンビネーシヨンが要求され
る。之を體育的に見ると甚だ過激な運動である。
アメリカの統計が示す所ではアメリカンラグビー
に次いで怪我の多いスボーツ即ち荒いスボーツで
講堂と体育館(
もある。しかもこのバスケットボール競技は、今
日日本の如何なる山間僻地の小學校へ行つても校
庭にその設備が見られるやうに、小學生にも容易
に入り得るボピュラリテイをもつ競技なのである。
女學校でも盛に行はれてゐる。實業団チームが最
近急増して来た。これらの事実はバスケットボー
ルがあらゆる意味に於て最も入り易くして最も奥
深いものであることを證明してゐる。バスケツト
ボールは萬人のスポーツなのである。
このことは本學に於ける現況ともよく一致する。
部員以外に各科(機械、應化、電氣、建築等)學
生のクラスマツチ、豫備部生徒の練習等々を通じ
て籠球部の利用状態は甚だ活?である。我々はこ
の現象を喜ぶ。それと同時に更に来たりて共に苦
しむバスケツトボールをやらうではないかと呼び
かけざるを得ないのである。そこから新しい籠球
部精神が生まれる。そこから新しい大岡山精神を
作り出さなければならぬ。我々の言葉はこうだ。
バスケツト程やさしいものはない。来たりて楽
しめ?
パスケット程苦しいものはない。来たりて苦し
め!(畑記)
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130 年史より)
部報 3(1959(昭和 34)3 月発行)より
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- 15 -
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前ページ左下から
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1928 年卒業アルバム
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- 17 -
1929 年卒業アルバム
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前ページ左下より
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前ページ左下より
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19451964
戦後の 20 年間の東工大バスケットの概況
を、紹介するのがこの稿の目的です。私が入
学したのは 1953 年でしたが、1949 年に新
制大学が設立され、従来の大学の中でも新制
度が始まりました。1953 年・1954 年は、戦
後の学制改革で大学が旧制の 3 年制から新
制の 4 年制に変更過程の最後の時期でした。
最後の旧制学生と最初の新制学生が 1953
春に卒業しました。また、東工大の主たるタ
ーゲット分野である、ものづくりによる日本
の経済成長が始まる頃でもありました。
私は、武蔵高校で畑龍雄先生から卓越した
指導を受け、インターハイの決勝戦も経験
し、畑先生の実弟の畑敏雄助教授が部長をし
ている東工大バスケット部に入部しました。
これまでの 60 年間、粗密の変化はあります
が、ずっと通して、東工大バスケットとの関
係を楽しませて貰っています。
私は 19534 月入学から 19583 月に
卒業するまで、5 年間大岡山で深くバスケッ
トに係わりましたが、前後の期間について
は、先輩から、後輩から見聞した情報からの
記述となりますので、記述内容には、ムラが
あります。
1945 年の夏、戦争が終わって、関東大学
バスケットの有志が集まって、リーグ戦復活
について相談をしたとき、東大、一橋大、早
稲田、慶応、立教、などの伝統校の代表に混
じって、東工大の池田敏雄さん(1946)が参
加しました。池田さんは、コンピューター、
囲碁でも有名な方ですが、バスケットでは九
段中学の OB・現役で構成する一球会という
チームでの活躍で、全日本ベストテンの一人
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- 23 -
年の活動
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1958 年卒 鹿子木 基員(前出)
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でした。池田さん率いる東工大バスケットは、
戦後の関東大学リーグに参加しましたが、池
田さんの超ワンマンチームでは、長続きしま
せんでした。この辺りの状況については、高
橋直先輩(1949)からお話を聞いたことがあ
ります。
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池田敏雄さん(東工大 130 年史より)
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その後は、同窓会初代会長の岩永昭二さん
(1951 )2 代目会長の滝島さん(1952 )
松原光一さん、太田晴康さん、大橋宏さん
(1953 )、横山弘さん(1954 )の時代です。
私が入学した 1953 年のバスケット部の体
制は、部長が畑敏雄助教授(1939)、監督が
須藤六郎助手(1944)でした。東工大のバス
ケットといえば、須藤さんがシンボルでした。
旧制水戸高校の選手として、全国大会で獅子
奮迅の活躍をしたそうで、当時、健康を害し
て居られましたが、部関係者ひとり一人を、
励ましたり、場合によっては叱ってくれまし
た。畑先生は、当時、原水爆禁止運動の推進
に多忙で、年数回の部員集会に参加して、ニ
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コニコして居られました。主将、横山弘さん、
指揮を執る石坂高志コーチ、対東大戦
選手は左から、浅野、阿部、鹿子木、堀井、小林
ベンチは、左から青木、島田
マネジャー、阿部さん
(1955
)
、藤本喜弘さ
ん、西尾さん(1956)。コートはアウトドア
で、練習日は水、土の放課後でした。秋のリ
ーグ戦は、旧制大学リーグの 2(3 部まで
あった)でした。
4 月に入学後、同期の青木公治さん、小林
昭夫さん、島田昭二さん、堀井義朗さん(1957
)と一緒に、部活に参加しました。間もな
く、東大の応物の学生だった石坂高志さん
が、コーチしてくださることになりました。
石坂コーチは、新制の 4 年生で、卒論は殆ど
できあがっていたので、松原さんが須藤さん
に進言して 1 年間だけ実現したものです。石
坂さんは、旧制東京高校が、インターハイで
優勝したときのマネジャーで、大橋さんのチ
ームメートであり、松原さんとも幼なじみと
いう関係がありました。石坂さんは、雰囲気
作りが上手で、みんなから慕われました。
部員それぞれが、実験、アルバイトその他
の活動との時間調整の中で集まるので、メン
バー全員が定例の練習日に集まることはあ
りませんでした。練習に参加するメンバーは
練習に参加することに意義を見いだし、秋の
大事な試合には、能力の高いものが参加する
ように協力しました。各メンバーは、それぞ
れの焦点を合わせて、自己管理しましたか
ら、チームとしてもそれらの多様な目的が達
せられるように運営しました。所謂レギュラ
ーメンバーは、横山、鬼頭(1956)、浅野
(1956 )、小林、鹿子木でしたが、運営管理
については、須藤さんの総括のもとで、阿部
さん、藤本さん、青木さんなどのマネジャー
陣が捌いてくれていたと思います。
石坂さんが、三菱重工に入社して去ったあ
とは、私が練習の計画を立てリーダーを務め
ました。須藤さんの存在は不動で、太田さん
が修士在学中は太田さんが助監督のような
役割を果たされました。私は、高校時代は中
学の指導を役割として経験していましたし、
その後も、高校の指導をしていましたから、
練習計画担当は負担と言うより楽しいこと
でした。
1955 年には、成城学園で東京一のフォワ
ードといわれた井田栄三さんや服部賢さん
(1959 )が入り、その次年度には、川又元夫
さん、小野寺利克さん、机希郷さん
(1960
)
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1953 年秋、神田国民体育館
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__rendered_path__3__rendered_path__96
- 24 -
その次には、渡邉雅大さん(1961)、その次
には武蔵高校が全国制覇したチームのレギ
ュラー乙幡悦男さん(1962)が入りました。
その次が、八嶋建明さん、古川哲郎さん、高
木清男さん、木村邦夫さん、巌浩一郎さんら、
経験を積んだ 1963 年卒の代となります。
マネジャーは、青木さんから、星野仁美さ
(1959 )、吉田豊彦さん(1960 )、杉田
さん
(1961
)
と引き継がれていきました。
ゲームに出て活躍する人、マネジャーとし
て活動する人の他に、多くの人材が集まっ
て、それぞれ目標や役割を見つけてやってい
ました。例えば、渡邉さんの同期は青田正明
さん、杉田啓さん、岩上重信さん(1961)
その他沢山います。
1956 年には、体育館が使えるようになり
ました。待ちに待っていた竣工式後、雨漏り
がして使えず、切歯扼腕した記憶もあります
が、練習の質が飛躍的に向上しました。
夏の合宿は、1953 年は、石坂さん、大橋
さんのご縁で、栃木県塩谷郡の氏家高校の古
い体育館でした。宿舎はお寺だったように記
憶しています。石坂さんは氏家高校の男女チ
ームを指導していたのです。石坂さんが卒業
されたのちは、私が引き継いで指導しまし
た。栃木県は全国でも有数の高レベルでした
が、私の指導した氏家高校も県の決勝戦まで
は進んだことがあります。1954 年は長野県
に行ったようです。1955 年と 1956 年は、
氏家高校に新築された新しい体育館でやり
ました。新しい広い体育館で、三線のダッシ
ュや、速攻の練習を徹底的にしました。オー
ルコートでプレスする練習も相当やりまし
た。応援に来てくれた鬼頭亮一郎先輩が、練
習していないとはいえ、現役のプレスに全く
対応できなかったのを見て、効果が上がって
いると感じたのを憶えています。北関東とは
いえども夏は暑い。それでも田園ののどかな
環境の中で、昼は汗を流
しながら技を磨き、
__rendered_path__2
- 25 -
身体を鍛え、夜は大きな部屋に蚊帳を張り、
その中で団扇で涼をとりながらだべりあっ
た雑魚寝の合宿生活は当時の青春そのもの
でした。
1957 年は、大岡山の新体育館でやりまし
た。宿舎はグラウンドの隅にあった柔道場で
す。マネジャー陣が布団等を借りてきて、自
分たちで運び入れました。1 年生が練習で捻
挫し、体育館から柔道場まで担いで運びまし
たが、その重かったこと。今でも背中に痛み
が走りますが、愉快な想い出にもなっていま
す。私は、卒業後、九州の工場に勤務してい
ましたが、東京で行われた学会への出張の合
間に、夏の氏家合宿 (1962 年の八嶋主将の
)を訪問して応援したことがあります。
この頃体育館建設記念行事が企画されま
した。たまたま大阪工業大学と接触があり、
名古屋を誘って三工大戦はどうかというこ
とになり、他の運動部にも声を掛け、第 1
三工大対抗試合の本学開催にこぎつけまし
た。名古屋は名古屋大学工学部でした。
練習のリーダー役は、私から、井田さん、
渡邉さん、乙幡さんと引き継がれていきまし
たが、私の方法の基本は引き継がれていった
と思います。というのは、私は後にミュンヘ
ンオリンピックの日本チームのヘッドコー
チを務められた畑龍雄先生(敏雄先生の実
)から、4 年間、週 23 回の練習で厳しく
指導された態度・知識・スキルに基づいてい
ましたし、私に続く方々と、バスケットや練
習に関する理解は共有されていましたし、な
んと言っても、須藤さんが総括して居られま
したから。畑龍雄先生は、後に、有名な「バ
スケットする心」を書いて居られます。キー
ワードは「へばったら、頑張れ」ですが、こ
こには、「自発的な取り組みの重要性」も書
かれていて、体罰問題などは起こりえないこ
とです。多くの点で米国の有名なコーチ、ウ
__rendered_path__88
ッデンの主張とも共通しております。
- 26 -
上述したように、理工系の宿命である実験
や実習のために、練習に参加するメンバーが
変動するという東工大特有の事情に対応す
るために私がしたことは、練習に参加するメ
ンバーのための目標設定と練習方法を提供
することでした。考え方の基本は畑龍雄先生
から習っていました。バスケット以外に、学
業、仕事、家族等の優先課題がある中で、多
くの人が、なるべく多くバスケットを楽しも
う、そのために智慧を絞って実践しよう、と
いう考え方です。チームや個人の課題とそれ
に対応する練習方法を整理しておき、練習へ
の参加状況に合わせて、練習を展開します。
個人的な成功事例は、高木ヤスオさん(1960
)です。大学に入ってからバスケットを始
めた高木さんは、職場のチームで腕を上げ
て、三重県代表になったそうです。小野寺利
克さん、机希郷さん(1960)にもそれぞれの
課題を明確にして取り組んで貰いましたの
で、大きな成果に繋がりました。小野寺さん
は私と同じ会社に入ってきたので、そこでも
一緒に九州代表になり、正月の全日本大会に
出場しました。年代は少し離れますが、郷司
正和さん(1971)、横山一郎さん(1982)
高橋由仁さん、世利卓也さん(1985)も同じ
会社ですから、直接間接バスケットを通じ
て、いろいろなコンタクトがあります。杉田
順さん(1960)は、ミニバスケットの指導者
として活躍しました。更に、岡安彰さん(1963
卒・現副会長)のお話では、岡安さんや佐野
實さん(1963)も、バスケットを大学で始め
て、杉田順さんらの指導で 3 年から 4 年生で
は主力で活躍できるようになったそうです。
1950 年代、東工大は関東大学バスケット
ボール連盟の 2 部リーグに属していました。
その時のチームは、法政、中央、東大、東工
大、一橋、千葉大(1958 年以降は専修)の六大
学であり、東工大は 4 位が指定席のようにな
っていました。毎年、一橋と千葉大には勝っ
てはいたものの、東大には不思議に勝てず後
塵を拝していました。しかし、1958 年に初
めて 3 位の座を射止め記念すべき年になり
ました(その年の優勝は東大)。スタメンは井
田主将、川又、小野寺、机、渡邉でした。
一度 A クラスに入ると流れができます。3
年後の 1961 年に乙幡主将を中心とした東工
大は再び 3 位の座を占めました。一度なら
ず、旧制 2 部リーグの上位に食い込んだわけ
ですので、東工大の環境でもやれば出来るこ
とを証明していると思います。
須藤さんは、私が卒業後、助教授、教授に
就任され、学園紛争の際は、学校側の代表と
して事態の沈静に奔走されたそうです。ま
た、須藤さんが奥様と結婚されたのは、私の
在学中ですが、ご結婚の前後にも、また、須
藤さんがお亡くなりになった後も、奥様との
交流は続きました。奥様も今は高齢ですが、
2012 年には、須藤六郎没後 33 年のお祭りを
企画して居られました。歴史プロジェクトに
ついて「六郎が生きていれば喜ぶでしょう」
というお言葉を戴いています。
雄先生は、2009 12 31 日に 96
才でお亡くなりになりました。新聞紙上に見
つけて、千日谷会堂での告別式に伺いまし
た。バスケットでの関係以外に、先生が専門
分野として開拓された接着関係で、ご指導を
お願いしたこともあったからです。東工大関
係者が多数参列していました。畑龍雄先生の
ご長男は私の知人でした。
19451965 年頃の東工大バスケットの交
友が、21 世紀にまで及んでいるところをご
紹介しました。
以上
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《一部 星野 仁美(1959 年卒) 記述》
須藤六郎先生の時代
部長 6 年・監督 27
前出の東京工業大学バスケットボール部歴史年
表をご覧いただきたい、畑敏雄部長・須藤六郎監督
のコンビは、1946 年から 1972 年まで、27 年続い
た。その後の 6 年間、1978 年までは、須藤部長で、
合わせて 33 年間、お世話になったことになる。
畑先生は、「資料から読み解く籠球部の創成期」
に紹介する東工大学友会史の篭球部の項のなかで、
貴重な考え方を披露しておられるので、読んでいた
だきたい。畑先生は、須藤先生より 5~6 歳年長で、
非常に有能で多面的に活躍されたが、多忙の中でも
バスケットに対する愛情を維持しておられたので、
須藤先生らしい考えでできたコンビだったと思う。
私が畑先生に会ったのは会食の場だけだったが、ニ
コニコしている畑先生の姿が印象的だった。私が卒
業した後の現役の写真に、畑部長・須藤監督がそろ
って映っておられるものが少なからずあるのを羨
望の眼で眺めている。
須藤先生の真骨頂は、その面倒見の良さだったと
思う。怖い存在、しかし一方では、仏の六さんとも
言われて愛された。怖い存在だったが、叱られた記
憶はひとかけらもない。いつも励まされ、褒めら
れ、慰められていた。須藤先生は、恩師の星野敏雄
先生とその弟子 3 人の大先生が構成する有機化学
教室(塔化会)結束の要役も務めておられた。
私が在学していた 1953 年度から 1957 年度の事
績、石坂コーチの招聘、バスケット部誌の編纂活動
は、須藤先生の指示のもとに行われていたことが、
今回の 85 年史作成の活動をして初めて知った。練
習に姿を見せることは稀だったが、必ず、誰かが連
絡役となっていたようだ。公式ゲームではベンチに
入って指揮を執ることもあった。
- 27 -
合わせて 33 年!
1958 年卒 鹿子木 基員(前出)
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1944
年卒 須藤
六郎
先生
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何か問題があると、その連絡役から、招集命令が
出て、然るべき場所に集まって講話を聞いては、励
まされた。
須藤先生は、人の話を聞くのがとても上手だった
とも思う。1970 年前後の学内の紛争の際には、学
校を代表して、学生の話を聞き、適切に処理する面
で活躍されたとも聞いている。
「須藤君が水戸高校バスケット部で活躍し、真骨
頂を発揮したのは昭和 15(1940)年のインターハイ
である。二人の故障者を一人で補って、須藤の奮闘
は凄まじいものであった。八高・静岡を下し、準々
決勝で成蹊に敗れたが、ひたむきにぶつかりゴール
に迫りポイントを重ねる須藤の戦いぶりは永く水
戸高校史に残るものである」とある。
「ロマンチストといおうか多情多感といおうか
直情の須藤さんの面倒見の良さ、不思議な指導力は
教授会メンバーとしても発揮され、学生の機微に通
じた良い指導者であったと確信しています(吉村名
誉教授)」
須藤先生は、私の在学中に智恵子夫人と結婚され
たのだが、その奥様がおっしゃった、「六郎に 85
年史を見せたいな!」
バスケットボールの思い出
昭和 254 月に工大に入学し、卆業する
までの 3 年間をバスケットボール部で仲間
達とバスケを楽しんでいたことになる。
私は工大に入学した際、後述する様にそれ
10 年近くバスケットボールをやっていた
ので、大学ではバスケ部には入らないで、勉
学に専念することを考えていた。ところが入
学してから 12 ヶ月の間、授業を終えて教
室を出ると、バスケ部の先輩が待っていて、
執拗に入部を勧誘され、断われ切れずに入部
したのが、3 年間バスケ部の生活を送ること
になった次第である。
然し乍ら 60 年前のことであり、3 年間の
バスケットボールがどの様であったかの記
憶が殆どない。何も思い出すことができない
まゝ、僅かに思い出すことの出来た二、三の
出来事を断片的に記述することゝしたい。
当時の工大は、午前が講義、午后は実験と
いう授業であったゝめ、バスケットの練習は
実験のない水曜と土曜の午后に限られてい
た。屋外のコートでの練習であったが、時折
武蔵小山の都立八中( 現小山台高校) の体育
館を借りたりしていた。
関東大学リーグの 2 部に所属し、他の大学
の様に豊富な練習はできないので、3 部に落
ちないことだけを心掛けていた。
公式戦としては、関東大学リーグと関東大
学トーナメントの二つの大会があったと記
憶している。3 年間に戦った公式戦の記憶は
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__rendered_path__52Image_239_0
1953 年卒 松原 光一
__rendered_path__44
全くないが、唯一関東大学トーナメントでベ
スト 8 迄勝ち進んだことだけが記憶に残っ
ている。ベスト 8 に進むまでどの大学と戦っ
て勝ったのかの記憶はないが、準々決勝で教
育大(現筑波大)と戦ったことだけを覚えて
いる。当時の教育大は 1 部リーグの優勝チー
ムで、その最強チームに対して前半をほゞ互
角に戦った為、ハーフタイムの時に教育大チ
ームのベンチでは、コーチが選手に激を飛ば
していた。
一年下に長野北高出身の横山弘君が入部
してから、彼の?話で長野市の善光寺前の旅
館で合宿し、コーチの須藤先生と共に練習に
励んだことを思い出す。或時その合宿所に先
輩の池田敏雄氏(昭和 21 年卆)が訪ねて来ら
れ、練習の指導をして頂いた。池田氏は、バ
スケットボール界でも有名人であったが、そ
れ以上に富士通に於いて日本のコンピュー
ターのパイオニヤとして?界的に有名であ
り、その様な人に指導して頂けたのは幸運で
あった。
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- 28 -
昭和 28 年に卆業する時、コーチの須藤先
数々の大会で優勝するなど最強のチームで、
生が身体を悪くして休まれたゝめ、後輩に対
その主力選手に浅黄姉妹がいた。姉がセンタ
するバスケのコーチを、私の親友で当時東大
ー、妹はフォワードであったが、その浅黄姉
の学生であった石坂髙志氏にお願いした。石
妹の父親が私の小学校時代の担任(1 年から
坂氏は東京高校( 旧制) でバスケットをやっ
6 年まで)であったゝめ、女学校のバスケット
ており、その後二、三の髙校( 新制) でコーチ
ボールの試合の応援に行ったのが、私をバス
をして実績を挙げていたのでお願いしたも
ケットボールに結びつけたきっかけであっ
のである。そもそも石坂氏と私は幼稚園の同
た。
級生であって以来、親友を続けており、中学
?の中には不思議な縁があるもので、この
や髙校時代はお互いのバスケット部で戦い
附属髙等女学校のチームをコーチしたのが
合った仲である。
畑龍雄氏で、畑氏と云えば武蔵髙校のバスケ
ットチームを日本一にするという執念で指
ところで、私がバスケットボールについて
導を続け、鹿子木会長が現役の時代にそれを
考える時、最初に書いた様に、工大に入学す
成し遂げたことでも有名である。
る以前にほゞ10 年に亘ってバスケットボー
ルをやっていたことに触れずにはいられな
私は中学と髙校でもバスケットを続け、髙
い。最初にバスケットボール( 当時は籠球と
校時代(旧制都立髙校) に全国髙等学校籠球
云っていた) を始めたのは、小学校 5 年の時
優勝大会(俗に云うインターハイ)で全国優
であった。東京女髙師( 現お茶の水大学) の附
勝を果たしたことが、私のバスケットボール
属小学校では、5 年生と 6 年生のクラス対抗
生活での最大の喜びであった。
のバスケットボールの大会があり、その選手
に選ばれたのが最初である。
この全国優勝をしたことでバスケット生活
は終了し、大学ではバスケットをやらないと
その当時、東京女髙師の附属髙等女学校の
思っていたことは最初に記した通りである。
バスケットボール部が、国体やリーグ戦など
以上
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バスケットボールこぼれ話 (1)
【バスケットボールは、誰が考え出したか?】
Image_243_0
YMCA の体育教官、James Naismith(カナダ人)
冬期の室内競技として 1891 年に考案した。
Image_244_0
個人が考案した競技は珍しい。
(秩父宮記念スポーツ博物館資料より)
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- 29 -
石坂高志氏について
バスケットボールの思い出の文中に述べ
通り、石坂氏を工大のバスケ部コーチにお
願いした張本人が私である。
石坂氏とは幼稚園が一緒で、中学、髙校時
(
石坂氏は東京髙校、私は都立髙校
)
お互い
にバスケットボール部に入り、両校は頻繁に
戦い合った仲である。大学も東大と工大と
別々であったが、その頃はお互いの家を行き
来しながら、専ら囲碁と麻雀を楽しんだもの
である。
石坂氏は二、三の髙校のバスケットをコー
チしていたことから、工大のコーチをお願い
した訳であるが、栃木県の氏家髙校の女子チ
ームをコーチしていた時、国体予選で栃木県
代表となり、東京で行われた関東大会に参加
したことがあった。氏家髙校のチームが夏季
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石坂氏
__rendered_path__43
1953 年卒 松原 光一(前出)
__rendered_path__76
合宿をした際、私も彼に頼まれてコーチの手
助けをし、氏家髙校の合宿所で数日を過した
ことがある。学校挙げての歓迎で、駅に到着
した時は学校の関係者や町役場の人の出迎
えを受け、合宿所では髙校の先生方の?話で
風呂を沸かして頂き、食事の?話もして頂い
た。
その頃、国土計画の中で尾瀬沼が破壊され
るという噂が流れた為、こわされる前に見て
おこうと、二人で 23 日の旅をした。その
時の写真を下に示す。
お互いに異なる分野で仕事をしていたの
で、会う機会は殆どなくなったが、20 年位
前と思うが、彼が東京に出張で来た際、銀座
で飲みながら話し合ったのが最後で、それ以
来逢う機会が無いのは誠に残念である。
以上
__rendered_path__85
__rendered_path__114Image_254_0
松原
__rendered_path__46__rendered_path__117
- 30 -
石坂高志コーチの想い出
石坂高志さんがコーチしたのは、1953
4 月から 1954 3 月までの 1 年間だった。
石坂さんは、東京大学第二工学部応用物理学
科の 4 年生(新制大学の一期生)だった。お父
上は最高裁判所判事で、お住まいは洗足だっ
た。
旧制東京高校が、1947 年最後の旧制イン
ターハイを制覇したときのマネジャーで、チ
ームのまとめ役であったので、全国制覇メン
バーの猛練習振りやチームメートひとり一
人についてプロフィルを良く聞かされた。ま
た、豊多摩高校と合同練習をされたそうで、
とくに教育大学の吉井監督の秘蔵っ子、松尾
選手(日本鋼管の名選手)の練習姿勢を良く
話題にされた。松尾選手については、畑先生
もしばしば絶賛されたし、生のプレーを見る
機会も多かったから、印象が強く残った。私
と同年配の浅野さんは豊多摩高校から教育
大を出て三菱重工に入ったので、私とも少し
交流があり、会えば親しい仲間である。
大橋先輩(1953)は、その全国制覇チーム
のセンターだった。MIT に留学したため、
東工大でのバスケ活動は限られたものにな
ったが、後に三菱重工の航空機部門で活躍さ
れたので、1968 年卒の岡さん(三菱重工)と絆
が繋がっている。
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- 31 -
__rendered_path__4
1958 年卒 鹿子木 基員(前出)
__rendered_path__50
石坂さんは、松原先輩(1953)と幼稚園時
代から親交があったので、須藤さんに推薦
し、コーチをお願いすることになったと聞い
た。石坂さんは、東大卒業後、三菱重工から
三菱自動車にご勤務、愛知県のミニバスケッ
トの振興に尽力された。
当時の練習コートは、アウトドアで、床は
コンクリートだった。練習日は水曜日と土曜
日の週二日。部員は 20 名弱いたが、学費稼
ぎの家庭教師などの予定があり、練習に出る
のは 10 人に満たない場合もあった。石坂さ
んは、その練習及び試合には、必ず来て指導
してくださった。日頃練習に参加する部員と
秋のリーグ戦を戦う部員とは必ずしも一致
しなかった。私は 1 年生だった。石坂さんは
春夏の休暇を利用して栃木県の氏家高校の
男女チームを教えていたので、東工大の合宿
練習を氏家でするようになった。また、その
コーチの役目は私に引き継がれた。話を本題
に戻す。
石坂さんは、雰囲気作りが上手で、「君ら
の実力を出せば、負けるはずがない」といつ
も言われた。相手のあることだから、うまく
いかないこともある、その際の、「全く!惜
しかったなあ!」という言い方がとても見事
だった。練習や試合中以外の会話が、素晴ら
__rendered_path__7
しく、楽しく、沢山のことを教えられた。
圧巻はシーズンの終わり、石坂さんの送別
Image_263_0
を兼ねた納会の席上、出席した一人ひとりに
「君はこういう特徴がある、ボクは感心した
よ」と言われた。私には「初めに君にあった
とき、既にうまかったから、これ以上にはな
らないと思ったが、この予想は全く外れた
よ」と最高のお褒めの言葉を頂いた。私は石
坂さんから頂いた言葉を一生大切にしてい
る。
当時の写真を探したら、ゲーム中に指揮を
__rendered_path__28
執る石坂さんの写真があった。できれば、こ
指揮を執る石坂コーチ
の文と一緒に載せたい
(対東大戦、国民体育館)
__rendered_path__22
以上
__rendered_path__2
バスケットボールこぼれ話(2)
【初めての試合は?】
1891(明治 24)1221 日、米国マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際 YMCA
トレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)18 人のプレーヤーたちで
行われた。
・当時、日本からの留学生だった、石川源三郎もその一人だった。
__rendered_path__75
・ゴールの形は、有り合わせの桃の籠であった。
・試合が始まって、約1時間後に初ゴールが入った。
(秩父宮スポーツ博物館資料より)
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- 32 -
横山弘氏へのインタビュー
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話し手
1954 年卒 横山
__rendered_path__103
終戦(敗戦)後の混乱期の話なので、学制改
革、外食券、進駐軍等の言葉が出てくるがそ
の説明はここではしない。
--何年に入学したのですか?
横山「昭和 25 年に入学し、29 年に卒業した。
入学した時は新制(大学)2 期目で 旧制の
最後の入学と一緒だった。バスケットボール
部で一緒だったのは 鈴木解雄さん、松原光
一さん、西迫俊二さん、柴家茂さん、大橋宏
さん等がいた。鈴木さんの他は旧制なので 3
年で卒業していった。1 年上に太田晴康さん
がいた。太田さんは新制の 1 期だったと思
う。滝島敏男さんは旧制で 2 年上だった。そ
の上に岩永昭二さんがいた。
岩永さんはその時 3 年生だった。このよう
に新旧入り混じって大変だった。その他に
「かく さん」という人がいた。」
--その人は名簿にのっていませんが
横山「台湾からの留学生でもう 1 人「?さん」
という留学生もいた。台湾系の留学生は沢山
いて、その人たちは大陸に帰って行ったよう
__rendered_path__49
- 33 -
__rendered_path__10
聞き手
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1961 年卒 杉田 啓
__rendered_path__3
だ。そこで中国大使館と試合をしてくれとい
う話になった。その頃はまだ蒋介石の台湾の
大使館だった。」
--中国大使館にチームがあったのですか?
横山「バスケットボールが好きでチームがあ
って、それと試合をしてくれということだ。
確か恵比寿の方に大使館があった。もちろん
外のコートでやったのだが、どうしてそんな
所へ行ったかというと、美味い物を食べさせ
てくれるからだ。試合が終わってから初めて
入る洋式の風呂に入って、それからいろいろ
食べさせてくれた。
がつがつしていた頃なので、出てきたもの
を目の色変えて食べていたら、中国の食事は
後の方が美味しい物が出てくるから初めから
そんなに食べない方が良いと言われた。
大使館の人は水道水を飲まなかった。空襲
で水道がめちゃめちゃになって、どんな水が
来ているか分からなかったからだ。その代わ
りコーラを出してくれた。これを飲むとかえ
ってのどが渇いた。3 回位やり、大陸との国
__rendered_path__15
交が樹立して台湾系の大
使館がなくなった。」
--
他にどんな人がいましたか?
横山「1 年下に鬼頭亮一郎さんがいた。練習
や試合にいつも出てくるのはこれらの人達
で名簿に載っている他の人はよく分からな
い。大橋さんはうまかったけれど、あまり出
てこなかった。入った年に関東の新人戦があ
ってそれに出た。準々決勝か準決勝で慶応に
負けた。」
--そうするとその頃は横山さん達が主力だ
ったのですか?’
横山「そうだ。上があまりいないので、入っ
た時からレギュラーだった。 滝島さんがセ
ンターで、岩永さんがガード、柴家さん・松
原さんもガード、西迫さんと自分がフォワー
ドといったメンバーでやっていた。岩永さん
がキャプテンだった。
3 年生になると旧制の人は卒業の年なの
であまり出てこなくなり、自分がキャプテン
になった。後から入って来たのが鬼頭さん
, それから鹿子木基員さん等が入って来
た。島田昭一さん小林昭夫さん等も覚えてい
る。小林さんは荏原にいった筈だ。日産にい
った人もいた。
自分の後は鬼頭さんがキャプテンをやっ
たのではないかな。卒業した後もよく行って
コーチをしていたからその辺の人達は覚え
ている。」
--その頃の練習場はどこにあったのです?
横山「ずっと奥の方の線路に近い所に弓道場
か柔道場があってその中でやっていた。」
--私の時も柔道場はありました。でも狭いの
ではないですか?
横山「狭い狭い。シュートの練習なんか出来
なかった。後は表でやっていた。昭和 32
に陸橋を渡った所に体育館が出来た。その前
はちょくちょく顔をだしていた。
合宿をやった。確か 1 年の時長野なら顔が
効くから長野へ行こうということになった
( 横山さんは長野高校卒) 。善光寺の山門の前
の山城屋という旅館に泊まって、2km 位歩
いて長野高校の体育館を借りてやった。練習
試合をやったりした。そこが借りられない時
は近くの小学校の体育館を借りた。次の年は
栃木の奥の方へ行った。多分柴家さんがセッ
トした筈だ。太田さんなら覚えていると思
う。合宿はこの 2 回だけだった。まだ外食券
の時代だから米・味噌を担いで行かないと泊
めてくれなかったので簡単ではなかった。よ
っぽど顔の効く旅館でないと泊めてくれな
かった。」
--柔道場等で練習した後シャワー等はあっ
のですか?
横山「ないない。顔を洗って上半身を拭いて
終わりだ。どこの運動部も同じだったと思
う。」
--リーグ戦はどうでしたか?
横山「ずっと 2 部だった。大体真中位だった。
6 校で良くて 3 位だったと思う。入れ替え戦
もなかった。当時落ちたり上がったりしてい
たのは専修と中央だった。」
--中央は強かったのではないですか?
横山「後半強くなってきた。一橋も最下位に
なったことがあったが、落ちなかった。東大
1 部だったと思う。強かったのは明治、法
政だったと思う。立教は 1 部だった。立教に
は諏訪高校の連中が行っていた。明治には北
越商業から行ったのが多かった。長野高校の
時に高体連で北越と当たって負けたことが
ある。その時の連中が明治に行った。」
__rendered_path__3__rendered_path__60
- 34 -
- - 当時練習試合はやっていたのですか?
横山「東大とは定期戦をやっていた。いい勝
負で向こうが少し強かったかも知れない。」
- - 一橋とはやらなかったのですか?
横山「一橋とはしょっちゅうやっていたの
で、定期戦はやっていなかった。佐々木とい
うのがいて大成建設に入ったら彼もいた。実
業団のバスケットをやろうと言ったが、彼は
バレー部に行ってしまった。後々大成建設の
OB 会でばったり会ったことがある。」
- - 芝浦工大とか武蔵工大なんかとはどうで
したか?
横山「全然関係なかった。三工大もなかった。
東京から出て行くことが大変だった。移動も
宿泊も体育館を借りるのも大変だった。」
- - 横山さんはずっと長野だったのですか?
横山「生まれは東京だ。昭和 19 年に市立一
中に入った。今の九段高校だ。当時としては
さばけた学校で生徒11人にロッカーがあ
った。そこに教科書等を入れておいて時間毎
にそこに取りに行っていた。戦争中でもそん
な学校があった。教練の先生は 226 事件
の生き残りでさばけた先生だった。その時に
どれかの部に入ることになった。小学校(
時は国民学校)の時にドッヂボールの後いた
ずらにバスケットをして面白いなと思った
ので、バスケットに入った。
__rendered_path__3
- 35 -
半年いて疎開で長野へ行った。昭和 20
に終戦になって大混乱だったが、その冬に部
を作ろうと仲間が集まって相談した。昭和
21 年の 4 月から活動を始めた。靴も無かっ
たからはだしでやっていた。足の裏が擦りむ
けてひどかった。何かないかと探して地下足
袋を見つけた。これで 1 年位やった。進駐軍
のハワイ生まれの人が見に来て、かわいそう
だとアメリカの子供用のバスケットシュー
20 足位をくれた。それを試合の時だけ履
いて練習は地下足袋でやっていた。とにかく
大変な時代だった。」
--東工大に入った動機は?
横山「自分は絵を描きたかった。家の中には
自作の絵や藤田画伯のリトグラフや佐藤忠
良の銅像(娘の佐藤オリエがモデルの)等々
沢山掛かっていた。それで上野に行くつもり
だったが、父親に大反対されてあきらめた。
落ちても恥ずかしくない所を受けようと思
って東工大にした。
戦争中は軍国少年だったので、飛行機とか
軍艦を作るのが夢だったこともある。しかし
航空科も造船科も無くなっていた。しかたな
いので一番近い建築にした。デザインもある
し、物作りでもあるしということだった。」
--いろいろお話を聞かせていただいて有難
うございました。
以上
※横山 弘 氏はこのインタビューの後、201112
12 日に逝去されました。
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体育館新設こぼれ話
年卒 星野 仁美
1959
当時、体育館建設にご尽力頂いた森教務課
長の写真がありましたので、そこから思い出
話をひとつ。
1955
年、夢と希望に満ちて入部したもの
()
の、技不足でそれをカバーする背丈も今ひと
つで迷っていたところ、青木マネージャから
「次をやれ」といわれその役につきました。
当時の練習は屋外のコンクリートコート
または校外の体育館での時間借り練習でし
た。たまたま小生は体育会の渉外担当になっ
たのを機に、卓球部、バレー部の後押しも得
て体育館新設を森教務課長に直に交渉。暫く
して森課長は航空機の格納庫のような体育
(
)
を建設してくれました。
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当時の体育館
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体育館で観戦中の森教務課長
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勿論、観客席は無く更衣室シャワー室は形
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ばかり。玄関はというと入り口の雰囲気。よ
く出張練習に行っていた目黒のドレメ体育館
(現杉野服飾大学)とは月とスッポン。それで
も床に感激、皆さんにも喜んでもらえました。
館内写真のバックの風景はまさに当時を物
語っており、いかにも懐かしい昭和の風景を
表わしています。
以上
():東工大 130 年史によると、茨城県古河
にあった航空機格納庫であったとのこと。
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東工大バスケ・昭和
昭和 35 年卒業の我々の年代は、同期入学
の部員も比較的多く、小野寺、机、杉田、関
口、高木、錦織、吉田、それに私( 川又) と 8
人がいた。
ただ残念ながら、このうち小野寺利克君、
机希郷君、吉田豊彦君の 3 名が既に逝去され
ている。小野寺君は試合のたびに婚約者が応
援にきておられ、机君はその闘病生活のさな
かにも母校の試合応援に車椅子でかけつけ
ており、吉田君はわが時代にマネジャーを引
き受け、先輩、後輩との連絡、取りまとめな
どにも奮闘されたので、我々以外の年代の
方々でもご存知の方が多いと思われる。
さらに、上の世代には現 OB 会長である鹿
子木さん、1 年上には井田さん、1 年下には
渡辺さんと試合になれば頼りになる強者が
おられたおかげと、同学年のポイントゲッタ
ーである小野寺、机両君の踏ん張りもあり、
試合では適度に勝ち適度に負けるという経
験を、我々の世代は存分にさせていただい
た。
当時の我が東工大は、関東大学バスケット
ボール連盟の 2 部に所属し、その他に、関東
国公立リーグ、三工大戦などを戦っていた。
現在の我が校の立ち位置と異なる点は日本
の中で大学バスケットの一流校ともいわれ
る学校とも対戦する機会があるし、適度の相
手で、対抗心を燃え上がらせられる相手とも
戦え、さらに、あまり勝敗を心配しなくても
なんとか形を整えられる相手とも試合があ
るという、身の丈以上の背伸びをしなけれ
ば、適度にバスケットの試合をエンジョイで
きる恵まれた環境で数多くの試合を経験し
ていたような印象が残っている。
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35 年卒の時代
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1960 年卒 川又 元夫
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そうは言っても、本当に強い相手との試合
では、ダブルスコア、トリプルスコアで負け
てしまうこともあり、この強い相手からオー
ルコートプレスでも受けると、なんともみじ
めな気持になりながら、誰かなんとか試合ら
しい形にしてくれる人はいないかなと、相手
の強いあたりにも抵抗できそうな我がポイ
ントゲッターに懸命にボールをつないだり、
また、点差が離れて相手がメンバーを落とし
てきたりしたときには、必死になって仕返し
の方法を模索したりしたものであった。
この種のぼろ負けの試合では、このような
局面から反撃に転ずるのは至難の業ではあ
るが、相手より一歩上に行くとはこういうこ
とかと思い知らされる場面ともなり、うまく
回れば、似たようなことを別の機会に別の相
手に試してみる手立てを入手する良いチャ
ンスでもあったともいえよう。
また、適度の相手、例えば国公立リーグで
の試合などでは負ければ心底、悔しいし、勝
てば存分に喜べるので、日頃それほどきちん
と練習ができてなくても、自然と気合が入
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り、うまくルーズボールに飛びつけたり、相
手のすきをついての速攻が成功したりした
工大戦で大阪に遠征した時に、皆で紀伊半島
ものであった。今思えば、何事も心・技・体
の今で云うホットスポット:熊野古道、周辺
というが、体格でおとり、技でもかなわない
から半島の先端の那智、串本まで、山中の宿
局面でも、心:気持ちの入り方、頭の使い方
坊に泊まりながら山歩きしたことなどが懐
で実力以上の結果が得られるケースもある
かしい思い出である。
ということも経験できた。
また、個人的には大学卒業後、修士取得の
一方、学校での活動:練習、は当時の体育
ため米国の大学に 2 年間留学したときには、
館ができたばかりで、練習環境も良いし、世
米国の 3 大スポーツのひとつであるバスケ
の中も高度成長前夜というべき時代で、毎年
ットボールにつき学内での活動をつぶさに
の外部での合宿も、先輩たちの援助もあり存
見聞きし、卒業すればプロチームから驚くほ
分に実施できており、部長の須藤先生も熱心
どの高額の給料でドラフトされることが約
そのもの、バスケットに熟達した先輩達もお
束されているような選手達でも、在学中は、
られ、文字通り、勉学活動もおろそかになる
奨学金を貰うために、いかにいい子になろう
くらい熱中しながら存分に部活動を楽しん
と努力しているか、その傾向がスポーツでの
だといえよう。
熟達者、成功者程強いようにも感じられたこ
バスケット部としての活動以外でも、我が
とが印象的であった。
同年代の仲間達と行動したこととしては、三
以上
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バスケットボールこぼれ話(3)
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【女子のゲームはいつから行われたか?】
1891(明治 24)12 月の男子の初ゲームから間もなく、米国マサチューセッツ州、ス
ミス・カレッジの女子バスケットボールの集合写真がある。
(秩父宮スポーツ博物館資料より)
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大学時代のバスケットボール
大学に入った時、新しい競技をしたいと思
いテニス部を希望したが、先輩の服部さんが
バスケット部に入らないかと勧誘に来た。中
学、高校とバスケットは飽きるほどしたので
大学ではテニス部に入りたいといったので
すが許してもらえませんでした。バスケット
部は軽い練習だからと勧められて遂に入部
を決めました。入部する時は仲のいい石平君
と一緒に入部しました。1 年のメンバーは、
渡辺、石平、青田、杵淵、岩上、杉田、梅木、
新井、加藤、(吉井、辻田、小林、黒川)( )
は既に死亡〉でした。現在は 9 人ですが毎年
仲良く温泉に行っています。
話を戻しますと、なんと私が入部すると、
服部さんの話とは大違いで、鹿子木さん(4
)、と井田さん(3)が本気になって練習に
参加して来たので大変でした。鹿子木さん
と、井田さんは特別に上手でした。鹿子木さ
んは全国制覇した武蔵の出身ですし、井田さ
んは強豪高校の成城学園です。鹿子木さんの
お兄さんは、東大のバスッケット部で活躍し
た、また、オリンピックにも出場した有名な
選手です。また、井田さんは高校時代にペア
を組んで頑張っていた人が、立教大学で全国
学生最優秀選手に選ばれる等、二人とも素晴
らしい選手でした。
私は高校時代に鹿子木さん、井田さんと試
合をしたことがあります。井田さんのチーム
には残念ながら負けてしまい全国制覇の夢
が断たれた苦い想い出があります。井田さん
のチームの前に前年度優勝チームの九段高
校との試合ではダブルスコアで勝ち、練習試
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1961 年卒 渡邉 雅大
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合では前年度ベスト 4 に残った日本橋高校、
小石川高校にも勝ち全国優勝を夢見ていま
した。
私が大学 1 年の時の思い出に残る試合は、
東大との試合です。当時東大には高校で全国
制覇した武蔵高校から 2 人が入っていまし
た。また当時我々は 2 部でしたが、1 部で優
勝するチームの教育大学(現在の筑波大学)
の主将が東大に転入してきて合計 3 人の素
晴らしい選手がいることになりました。その
東大と大接戦の結果、勝つことが出来たとき
皆飛び上がって喜びました。私も自分の力以
上のことが出来たと感じました。
2 部の優勝チームは中央大学でした。1
の最下位は早稲田でした。その入れ替え戦は
大接戦で延長戦の結果早稲田が 1 部に残り
ました。その中央との試合で我々が 1 試合目
に勝ったら次の時に全員丸坊主で出てきた
ので、どうしたのかと聞くと東工大に負けた
ので全員丸坊主になりましたと教えてくれ
ました。
__rendered_path__13
その中央大には中学時代に一緒にバスケ
をしていて私が指導した後輩が
2
人いまし
その時は私が作ったチームでしたので私の
た。また教育大学のチームには中学時代に一
チームにはコーチがいませんでした。結果は
緒に教育大学に入ってバスケットをしよう
私が得点したフリーローの点だけでしたので
と言ってくれた友人が 2 名いました。試合後
敗退しました。その時、武蔵高校の畑コーチ
は私の家でお互いに懐かしい中学時代のバ
が我々のチームを励ましてくれました。〉
スケットの話に花を咲かせました。
以上
〈私が中学生の時、東京都の決勝戦で先輩の
塚田さんのチーム(黒門中学)と試合をしま
※渡辺 雅大 氏はこの寄稿を頂いた後、2012
した。
10 16 日に逝去されました。
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バスケットボールこぼれ話(4)
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【畑先生語録】
1. ノーモーション 2. 下に跳べ 3. 時間の使い方、体の使い方
いずれも素早く動くことに関連している。
鹿子木基員会長記「畑龍雄先生のお墓と最近のバスケ随想と論考」より
(日本バスケットボール振興会プラザへの寄稿_201110 月)
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年度の活動及び同期のチームメート
昭和 37
私たちが新入生として昭和 344 月に入
部した時の人数は、10 数人とその前後の数
年に比べて、かなりの多人数でした。通常の
練習時(当時は月曜日の夜と水曜、土曜の午
)には、一年生用の練習が別に行なわれた
くらいでした。残念ながら 2 年生になるまで
に数人が脱落しましたが、巌、海老名、岡安、
木村、佐野、高木()、高木()、高谷、古
川、八嶋の 10 人が 4 年間部員として活動を
続けました。このような多人数だった年度
は、前後の数年間には見当たらず、特別な年
度といえたかもしれません。この 10 人は、
海老名が 2008 年に逝去しましたが、卒業後
も度々同期会を開催し、特に 60 歳前位から
は毎年 12 日の小旅行を行なっています。
それほどの仲良しで、しかもこのうち 7 人が
プレーヤーとしてもスタートメンバーにな
れるほど充実していたのですが、リーグ戦で
は1勝も出来ず 3 部との入れ替え戦を戦う
という屈辱を味合うこととなってしまいま
した。
この理由の最大のものは、当時主将を務め
ていた私のリーダーシップの欠如によるも
のでした。言い訳としては、仲良し同士によ
る馴れ合いが原因の厳しさの欠如、それと 1
年下の部員が高校での経験者が皆無であっ
たため、なるべく下級生に出場の機会を与え
ようとしたために、実力主義を貫けなかった
ことによる同級生たちに芽生えた小さな不
満に気付かなかったことでしょう。また、1
年上の乙幡さんが抜きん出た存在だったた
めもあり、その戦法や戦略をそのまま受け継
ぎ、独自のものを生み出してゆく努力と意欲
が欠けていたことに後になって気がつきま
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1963 年卒 八嶋 建明
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した。当時は、このメンバーでどうして勝て
ないのだろうと不思議に思う 1 ヶ月でした。
2 部最下位というのは、これまでになかった
ことで先輩諸氏より大変厳しく批判されま
した。このときの入れ替え戦では、前半にリ
ードしたこともあって後半のスタートで 2,
3 年生を主力にしました。結果は楽勝でした
が、試合終了後 2 年先輩で心配のため応援に
こられていた梅木さんに、「入れ替え戦を何
だと思っている!」と大目玉を食いました。
このように甘い甘い私が主将になったこと
が、メンバーがそろっていたのに好成績が挙
げられなかった大きな原因であったことは
明白です。この年は、春(氏家)と夏(釜石)
合宿も順調で、リーグ戦前に行なった成蹊大
との練習試合にも圧勝し、練習の成果がリー
グ戦に反映できたはずだったのにと、今でも
残念に思っています。
また、この年は 2 年ほど絶えていた「三工
大戦」が、大阪工大の替わりに京都工芸繊維
大が入り、名古屋工大と共に国立三工大戦と
して復活しました。さらに現在でも形を変え
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て継続している「理工系大学戦」が、埼玉大
工学部を中心として発足しました。「理工系
大戦」では、大きなトラブルに巻き込まれま
した。当時の優勝候補は芝浦工大でしたが、
初日は 1 軍が遠征中で 2 軍が出場し、1 回戦
で敗れるという事態が起こりました。東工大
1 回戦の敗者と戦うことになっていたの
ですが、大会の幹事と芝浦工大のマネージャ
ーの必死の頼みで、試合を後日行なうという
申し入れを受諾いたしました。結果は我々の
敗北でしたが、当時有力校の筆頭であった芝
浦工大をこの大会に組み込むことが出来た
一助にはなったのかなとは思っています。
「三工大戦」は 12 月に行なわれ、京都ま
で夜行を乗り継いで行きましたが、京都工繊
大に敗れて 2 位でした。すでにチームは 3
年生と交替していたのですが、新チームの人
数が少なかったこともあり、4 年生の大部分
が参加しました。ただし、少し真剣みに欠け
いたかなとは思っています。
現役時代の思い出は、なんと言っても合宿
が挙げられます。1 年生の時は仙台でした。
入学前にすっかりなまってしまった体がま
だ戻っていなかったため、体力的には大変つ
らい思いをしました。唯一の楽しみは、練習
帰りに立ち寄った青葉通りの小さな店での
“ カキ氷” くらいでした。
2 年生の時は新潟で行ないましたが、ここ
での宿屋では若い女中さんが大変親切に世
話をしてくれたことを覚えています。合宿終
了後は佐渡ヶ島を観光しました。しかし、チ
ャーターしたタクシーの運転手さんの説明
が子守唄に聞こえた後、少しして目が覚めま
すと他の 3 人は全て居眠りの最中でした。
3 年生の時は春が氏家で、鹿子木さんが駆
けつけてくださいました。夏は日立で行ない
ましたが、体育館の風通しが悪く暑さに参っ
たことを覚えています。
4年生の時には春は氏家、夏は釜石でした。
夏の合宿後は 2~3 のグループに分かれて東
北を旅行しました。私達は、海岸線を中心に
三陸を旅しましたが、先年の大津波で当時の
美しい景色が残っていないのではと残念に
思っています。この頃は 2 食付で 1350
500 円で旅館に泊まれたので、気楽に旅行
が楽しめました。この時は、佐野の実家のあ
る盛岡で名物の「わんこそば」を一緒に食べ
に行き、女中さんの手練の技に悲鳴を上げな
がら 50 杯以上平らげたのは楽しい思い出で
す。
また、3 年生の春休みには、関西から山陽
を通っていくつかの工場を見学し、最後は九
州で解散する「見学旅行」(現在では廃止)
いう全学行事があり、いくつかのグループに
分かれて参加しました。当時三菱化成(現三
菱化学)の黒崎工場(北九州市)に勤務されて
いた鹿子木さんと小野寺さんのお誘いで、7
8 人がスケジュールを調整して黒崎に集
まり、工場のチームと対戦しました。結果は
敗戦でしたが、これも楽しい思い出です。
この学年は、卒業後も毎年 1230 日に
東京近辺の実家に帰省した連中が集まり、時
には後輩たちを巻き込んで、東工大の体育館
でゲームなどを楽しみました。この日は大学
も冬休み中でしたが、門衛さんは快く体育館
を開けてくれました。この集まりは、学園紛
争中も含め 10 年ほど続きましたが、各自の
奥様方から、「暮れの忙しい時に何事か!」
との大反対で終わりとなりました。振り返っ
て見ると、この学年は皆バスケットが本当に
好きだったのだなと、一緒に過ごせたことを
幸せに思っています。
以上
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【写真】19511965 年頃の思い出
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1951年
1952年
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1953年
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1953年
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1954年
対千葉大戦
三人来たがどうするか
見守る鬼頭、吉田先輩
両国メモリアルホール
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1954年
対千葉大戦
エンドへ抜いてシュート
ゴール下小林、浅野、吉田
両国メモリアルホール
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グラウンド横のコンクリートコートで遊び
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1954年
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1954年
対東京大戦
シューター鹿子木
国民体育館
1954年
対東京大戦
鹿子木、45度から1対1
22小林、23堀井、
その間は鬼頭、ガードは浅野
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国民体育館
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岩上
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青田
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吉田
1956年夏合宿大岡山
ある練習日に(1958年、東工大体育館にて)
新井
錦織()
杉田
高木
村木
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梅木
石川
川又
吉井
小森田
乙幡
杉田
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小野寺
塚田
星野
須藤
井田
服部
錦織()
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- 47 -
黒川
__rendered_path__55
小林
__rendered_path__56
渡辺
__rendered_path__6__rendered_path__7__rendered_path__6__rendered_path__7__rendered_path__16__rendered_path__17__rendered_path__19__rendered_path__20__rendered_path__22__rendered_path__23__rendered_path__28__rendered_path__29__rendered_path__16__rendered_path__17__rendered_path__36__rendered_path__6__rendered_path__7__rendered_path__40__rendered_path__35__rendered_path__36__rendered_path__43__rendered_path__44__rendered_path__46__rendered_path__47__rendered_path__49__rendered_path__50__rendered_path__52__rendered_path__53__rendered_path__58__rendered_path__59__rendered_path__61__rendered_path__62__rendered_path__52__rendered_path__53__rendered_path__35__rendered_path__36__rendered_path__66__rendered_path__67__rendered_path__6__rendered_path__7__rendered_path__70__rendered_path__71__rendered_path__16__rendered_path__17__rendered_path__74__rendered_path__75__rendered_path__19__rendered_path__20__rendered_path__16__rendered_path__17__rendered_path__79__rendered_path__80__rendered_path__22__rendered_path__23
関口
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1958年、校内駅伝競技大会で優勝(本館前)
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1959年、vs東大工学部ボートレース(隅田川)- - バスケ部でクルーを編成
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1959年、三工大戦を終えて(優勝)
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1961年8月夏合宿@日立国分体育館
1961年 8月 夏合宿 日立国分体育館 後列 左から :小森田 :(S37卒)、吉村 (S40卒)、村木 (S37卒)、難波
(S39卒)、上島 (S40卒)、高木(千)(S38卒)、大国(S40卒)、石川 (S37卒)、八島 (S38卒)、木村 (S38卒)、三橋
(S39卒)、岡安 (S38卒)、前列左 から :川村 (S39卒)、岡部 (S39卒)、巖 (S38卒)、乙幡(S37卒)、佐野 (S38卒)、
高木 (清)(S38卒)、高谷 (S38卒)、古川 (S38卒)、
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1962年8月夏合宿釜石4年生
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1962年夏合宿釜石集合
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1963年夏合宿仙台川内体育館集合
(福島さんは盲腸で荻野病院行き)
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1964年夏合宿富山(不二越(株)体育館 1967卒同期)
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伊藤HC
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内山
1965年夏合宿(小樽商大体育館)
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八嶋
1965年夏合宿(小樽商大体育館)
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横山
河村
渡辺
松田
伊藤
前田
前田
山本
伊藤
福島
- 51 -
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福島
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稲垣
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松田
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稲垣
年頃の活動
1965
1985
私が修士を修了し助手になったのが 1965
年ですので、この時代は丁度若手
OB
から中
年にかけての時代と重なります。もうだいぶ
前のことでもあり、記憶力が減退してきたこ
ととも重なり、あいまいもしくは不正確な部
分もあることをあらかじめご承知ください。
まず、部の体制に付きまして記述しておき
ます。
1972
年までは、部長に畑敏雄先生、監
()
督に須藤六郎先生が就任していらっしゃいま
した。
1973
年からは、畑先生の御退官に伴い
須藤先生が部長に、また監督は服部賢先生が
引き受けてくださいました。そして、
1978
年に服部先生が長岡科学技術大学へお移りに
なるに当たり、私が監督となりました。さら
に、
1979
年には須藤先生の御退官により、私
が部長と監督を兼任することになりました。
1985
年からは原辰次君が長岡科学技術大学
から帰ってきたのを機会に、監督をお願いい
たしました。彼の研究室は長津田キャンパス
にあったため、大変だったとは思いますが、
かなりの頻度で練習にも参加してくれまし
た。
次に、関東学連のリーグ戦形式の変遷につ
いて書くべきだと思います。1966 年に我々が
所属していた旧制リーグと新制リーグとの統
一が行なわれ、以後数年毎にリーグ編成の改
変が繰り返され、そのたびに対戦相手はがら
りと変わるという具合で、このような状態が
現在にまでつながっています。学制改革から
10 年以上は優に経ち、いまさら旧制だ新制だ
というのもおかしいことはよく理解できまし
たが、
1966
年以後東工大のバスケット部は、
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- 52 -
__rendered_path__83
1963 年卒 八嶋 建明(前出)
嵐の海に投げ出されたかのように翻弄
されることになりました。旧制リーグの
時代は 3 部からなり、新規加入はもとよ
り無く、それぞれが属する部からの入れ
替えもありませんでした。我々が属して
いた 2 部には、他に中央、専修、法政、
東京、一橋が所属し、中央、専修及び法
政の上位 3 校と東京、一橋および我が東
工大の下位 3 校との実力差は明らかで、
毎年のリーグ戦は、事実上 46 位争い
でした。また、その下の 3 部に属する大
学とは、これまた明らかに実力差があり
ました。即ちどう間違えても 1 部に上が
れるわけでもなく、また 3 部に落ちるこ
とも無いというまさに「ぬるま湯」状態
でした。一方で新制リーグのほうには、
新しい大学が次々に参入し、参加大学は
増える一方でした。そんな時のリーグ統
一でしたので、リーグ戦での対戦相手は
次第に失礼ながらそれまで名前を聞い
たことも無いような大学へと変わって
ゆきました。
チームの指導体制にも大きな変化が
ありました。私が学部を卒業した年まで
の数年間は、特に専任のコーチは居ら
ず、4年生が自主的に練習計画の作成及
び実行、さらに技術的な指導や試合にお
けるベンチワークなどを行なってきま
した。しかし、我々の学年の失敗(別記)
を見た下級生は不安を覚えたようで、大
学院に進学した古川君をコーチに要請
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します。さらにその下の学年は、土屋君
の努力で当時早稲田のヘッドコーチを退任し
たばかりの伊藤順藏氏をコーチとして招請す
ることに成功しました。伊藤コーチは、初め
は練習時間の短さや基本が出来ていない部員
が多数いることにだいぶ戸惑ったようですが、
東工大の事情を理解していただき、それにあ
わせた指導を行ってくださいました。当時は、
私たち OB の組織も貧弱で、資金的な面で非
常に脆弱でしたので、何かと機会を作って伊
藤さんのお好きなお酒を御一緒したくらいで、
ほとんど報酬などは払えなかったと記憶して
います。それでも、東工大の雰囲気を気に入
っていただいて、以後 7 年間をコーチとして
御指導いただきました。伊藤コーチ就任の年
のリーグ戦は、前年の東京オリンピックで新
設された代々木第二体育館で行なわれました。
そしてその緒戦で専修に勝利するという快挙
が得られました。残念ながら勝ち点は奪えま
せんでしたが、このときつくづくコーチング
の重要性を認識しました。伊藤さんのコーチ
時代には、私も出来るだけ練習に参加するよ
うにいたしました。夏の合宿にはほとんど参
加させていただいたのではないかと思ってい
ます。一番印象に残っているのは、小樽商大
で行なった合宿です。体育館と宿所は町から
周囲に何もない坂道をかなり登ったところに
ありました。この時は OB の特権で、厳しい
練習は見守るだけにして、休憩時に伊藤さん
とビールを賭けてフリースローの試合を良く
やりました。その頃は私もかなり自信があっ
たのですが、伊藤さんはそれを上回る腕で、
大半は負けでした。その夜は(ほとんど毎晩
でしたが)、長い坂道を下りてビールを飲み、
また坂道を上って宿舎に帰りましたが、今考
えるとご苦労なことをしたものです。
伊藤コーチが早稲田に帰られた後は、学部
学生の大半が大学院に進学するという時代に
なっておりましたので、現役時代チームの中
- 53 -
心的役割を演じてきた部員がコーチとして後
輩を指導するという形が出来てきました。こ
の形は、良い点と悪い点とが混在することは
確かですが、学生スポーツとして、特に東工
大の運動部としては、いかにも東工大らしく
て良かったのではないかと思っています。た
だし、このような体制では「強いチーム」を
作り上げ、これを維持するのは難しいとは思
います。
またこの頃の特徴的な事項として、他大学
の女子学生をマネージャーとして来て貰って
いた時期がありました。当時は東工大での女
子学生の割合が今よりずっと少なかったこと
も影響があったと思いますが、マネージャー
は女子学生がやるものだという変な考えがあ
ったようにも思えます。またなぜかこの頃の
東工大の学生は、若い女の子に人気があった
ようでした。このことを教えてくれたのが、
私が 1982 年の 4 月に行なわれた OB 戦で、
アキレス腱を切断してしまい、しばらく入院
する羽目になった時のことです。ある日現役
の学生たちがお見舞いに来てくれたのですが、
その時間に限って、若い看護婦さんたちが別
に用も無いのにかわるがわる病室にやって来
ていましたが、学生たちが帰った後で、賑や
かなおしゃべりがしばらく聞こえていました。
この期間における社会的に大きな出来事は、
1969 年を中心に起こった学園紛争と呼ばれ
たもので、東工大も巻き込まれました。元首
相の菅直人は中心人物の一人でした。ある朝
登校すると、教室から持ち出された机で正門
にバリケードが築かれ、教授・助教授が締め
出される事態となり、部活動どころではなく
なりました。丁度その頃、若手 OB を中心と
してクラブチームを作り、練習試合や公式戦
として国体の東京都予選などに参加する活動
を行ないました。チーム名は覚えていないの
ですが、私のところに今でも、K?R? という
ロゴ入りのオレンジ色のユニホームが残って
れていたようですが、練習に参加したり、リ
います。またも私事になりますが、大学側が
ーグ戦を観戦にいった記憶はありません。
機動隊を導入してバリケードを撤去し、今度
前述のように、アキレス腱の怪我以降は練
は学生をロックアウトしたのですが、丁度そ
習に参加したり、OB 戦に出場することが出
の前日の K?R? の試合で足首をかなりひど
来なくなったため、もっぱらコンパにしか出
く捻挫したため、当日の出来事は自宅のテレ
られなくなったところに、原君が戻ってきて
知るという事態になりました。しかし、
くれたため、安心したこともあり次第に体育
記録を見ますとこの期間もリーグ戦は行なわ
館への足が遠のいていった次第です。
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バスケットボールこぼれ話(5)
【バスケットボールのルールは?】
<基本ルール>
・ボールを持ったまま走ってはならない。
・身体接触や衝突をしてはならない。
・競技者の頭上に水平のゴールを置く。
・競技者は何時でもボールを奪い得点できる。
後に、1892 年、ネイスミスにより、13 条の公式ルールが付け加えられた。
(秩父宮スポーツ博物館資料より)
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- 54 -
年史発刊に寄せて
東工大バスケ85年史への「お祝いの言葉」
「わが歩み」
東工大を訪れる前の諸事情]
[東工大とのかかわり]
[
1.
2.
3.
4.
5.
1.
昭和 25 年入学以来関わってきた早稲田
大学バスケットボール部であったが、期
するところがあり昭和 38 年監督を辞任
した。
体育局教員として、バスケットボール(
間実技・週 3)、スケート、野外活動(
にシーズン実技)を担当。授業の延長とし
9 つの同好会(バスケット関聯 6 クラ
)の会長を務める。
昭和 39 年の東京オリンピックに際し、
数年前より競技役員としてスカウティ
ング・コーチであったが、情報集め程度
であった(強化費稼ぎのため)
横浜で行われた予選を見て、プエルトリ
コ等の無名国の選手の身体能力から将
来、日本は国際舞台では活躍の場はない
だろうと絶望的になった。
オリンピック後、多額の国費の支出に対
する恩返しとして、日本協会はオリンピ
ック会場で各コーチが少年少女バスケ
ットボール教室(現在のミニ・バス)を主
催し、私もその講師になり、之は楽しか
った。
土屋武彦君(昭和 40 年卒)とわが妻朗子
が高校のバスケットの同窓仲間であっ
たのでコーチの件の打診があったが、最
初は OB に大学院生が多いので、コーチ
の指導をしてくれないかとの話であっ
た。
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__rendered_path__7
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元ヘッドコーチ
19641970 年 伊藤 順藏
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2. その誘いに乗ったわが身の魂胆は、国立
大で理工学専門の人達が、何故私に目を
つけたのか、面白いじゃないかという野
次馬根性がまずあったと思う。しかし何
より頭を使った組み立てるバスケの魅力
と期待が大きかったと思う。何と云って
も理数系の頭脳明晰さはフォーメーショ
ン造りに生きると信じていたので試行し
てみたかった。更に相手の考えや動きへ
の洞察力を生かしての逆をとるのが上手
であろうと楽しみであった。
[そして東工大での結実は]
1. 私は東工大の皆に溺れた。個性的な OB
の先生や院生や現役との触れ合いが深
まるにつれ、練習、試合、飲会とバスケ
仲間をこえる間柄になっていった。
2. 生意気の人もいたが、真剣にぶつかって
きた。だから何か造れた時、勝負の結果
(余り勝てなかったが)が出た時、連帯感
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- 55 -
があり感動した。之は特にお礼を言わな
学外では体育学会、体育連合、文部省関
くてはならないが、飲ん兵衛の私は只管
聯・スポーツ学会などの仕事をこなした。
喜びも悲しみも共にあった。
そして何より授業、応援部、同好会、仲人
など共に培った仲間に手厚く囲まれて幸せ
[そしてその後]
である。
バスケット部関聯からは離れて一 OB
老いの現実を静かに受け入れて、しかも
すぎなかった。早稲田の教員として 44 ある
老いの時間を共有してくれ受け入れてくれ
運動部と保健体育の正課としての実技と講
る人と過ごした還暦、喜寿、傘寿など人生
義を管掌する体育局の教務を 18 年間、さら
の節目の宴には必ず東工大の人達が在る。
に応援部長を 30 年近く勤めあげた。
心からの感謝感激の極みである。
以上
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__rendered_path__5
伊藤順藏さんに原稿をお願いすると同時に、指導を受けた OB 3 名で直接話をお聞きし、
録音記録をとった。
「伊藤さんを囲む会」の説明
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参加者:伊藤順藏さん、福島正之(1967 年卒建築)、細入誠一(1968 年卒建築)、横山功一
1969 年卒、土木)
場所:大岡山 蔵前会館 2F Royal Blue 精養軒
日時:平成 2462011301300
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左より:細入、伊藤元コーチ、福島、横山
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- 56 -
【伊藤順藏氏プロフィール】
1931
年現岡谷市にて誕生。長野県諏訪清陵高校、早稲田大学
(
政治経済学部政治学科
)
でバスケ
ットボール選手、その後指導者として活躍。
1958
年より、早稲田大学体育局助手、講師、助教授、教授
(
1987.3)
1987
年より同大学人間科学部教授
(
2002.3)
。学内で、体育局長、応援部長などを、また学
外では文部省保健体育審議会委員、?全国大学体育連合理事長などを歴任。
2002
年早稲田大学名誉教授、
2011
年瑞宝中綬章受章。
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バスケットボールこぼれ話 (6)
【バスケットボールは、日本の大学には何時普及したか?】
1924
年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成した。
1930 年に日本バスケットボール協会(JABBA)が設立され、普及と発展及び技術レベル
の向上に努めている。
(秩父宮記念スポーツ博物館資料より)
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- 57 -
伊藤順藏さんとの思い出
--専修大学に勝利した感動― ―
はじめに]
[専修大学との定期戦
[
1.
2.
3.
1.
土屋武彦さん( 昭和 40 年卒) がキャプテ
ンになった時、早稲田大学でバスケット
ボール部の監督をしていた伊藤順蔵さん
が、我がコーチのコーチ役としてやって
きた。
バスケットボールのディフェンスのフォ
ーメーションとか、オフェンスのフォー
メーションとか理論的なことを教えに来
た。土屋キャプテンを中心とした東工大
バスケ部に新しい風が吹きはじめた(
の大きな体を使って!) 。 小生のような
体力的な弱さがある者にとっては、ガー
ドディフェンスの重要性を強調し教えて
くれた。
眼光も鋭く、声が大きく、学生時代も獰
猛なセンターで鳴らしていただけあっ
て、リング下でのフックショットやリバ
ンドのポジショニングは圧巻で、それを
直接、センターの吉村先輩や三橋先輩た
ちに指導してくれた。
(2 )を迎えて]
専修大学戦を迎えた。いままで全然歯が
立たないと、半ばあきらめていた専修大
学との一戦であった。伊藤さんは初めに、
「専修大学に君たちは勝てる。君たちが
頭脳と体を使って戦えば必ず勝てる。」と
洗脳してくれた。自分たちのフォーメー
ションで戦い、相手を巻き込めば勝つ方
法はある。ゾーンデフェンスとマンツー
マンデフェンスの絶妙な組合せ等を定期
戦で教えてくれた。そのやり方は次のよ
うであった。
- 58 -
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友人と東日本大震災募金を呼びかけて
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1967 年卒 福島 正之
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2. 前半戦から相手のペースを狂わせて、わ
れわれのペースに巻き込んだ。まずゾー
ンデフェンスを真剣に行った。そうした
ら、相手は遠くからシュートが多くなっ
た。それをゴール下で位置取りを相手の
先に行い、リバウンドに全員集中した。
オフェンスはローリングオフェンスな
どを組み入れて時間をかけボールを回
し、丁寧にシューターにゴールを決めさ
せリードした。
3. 後半戦が始まると、相手側に焦りが出て
きた。その時こそ、頭脳戦術が役にたっ
た。マンツーマンとゾーンデフェンス組
合せ。先頭のガードが、相手の動きをか
く乱し、ボール回しをかく乱する戦法に
出た。ボールをインターセプトすること
を心がけた。第 4 クォーターに入り、時
間勝負の戦いでも、常に冷静な判断と、
果敢なアタックでゴールを確実に狙っ
た。つまり「バスケットボールは相手が
ゴールしても、その後、必ず自分たちの
ボールとなる。つまり、われらが作戦を
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立てて、相手の弱さをついて、攻めるこ
とができる競技である。」と信じきった。
この戦術が見事に花開き結実し、専修大
学を破った。伊藤順藏理論の勝利であっ
た。そして土屋キャプテン以下全員で感
動した。
以上
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バスケットボールこぼれ話(7)
【シュートとシュートブロックの争い】
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Image_426_0
・時間、空間、人間を具体的に考えてシュート方法と練習方法を工夫すると、
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攻防の全般にわたって、色々な道が開ける。
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Image_429_0
鹿子木基員会長記「畑龍雄先生のお墓と最近のバスケ随想と論考」より
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(日本バスケットボール振興会プラザへの寄稿_2011 10 )
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- 59 -
バスケットOB・歴代役員への寄稿依頼にあたって
(
)
現役時代の想い出
残念ながらはっきりと覚えていることは少
ないですが、合宿の打ち上げ等でお酒を相当
飲まされたり、飲ませたものでした。折角で
きた体力なりを、これで無駄にしていると思
ったものです。あまりいい習慣・伝統とは言
えませんね?
また 3 年のとき、秋のリーグ戦が終わり次
の体制をどうするかで、CAP に手を挙げまし
た。それなりの思惑があり、ならせてもらい、
同年生で相談して練習計画等していたが、練
習当日の参加者や実験で遅れる人、また練習
が内容的に予想通りいかないこともあり、そ
の場で変更なりを即決せざるを得ず、後半は
自分がかなり独断でやっていたと思う。本を
勉強したりしてスクリーンやブロックなど基
礎をかなりしていたが、最終的には雑誌に能
代高校のオールコートプレスの練習内容がか
なり詳しく載っていて、これだ!と飛びつい
た記憶がある。
これをものにするにはスタミナも重要で、
オールコート 40 往復を取り入れたり、また途
中にディフェンスを配置するなど極力実戦に
近い形を工夫した。平均身長が低く、173cm
の自分が、相手のセンターにディフェンスせ
ざるを得ないチームでは、オールコートプレ
スしか考えられなかった。それでも途中でオ
ールコートを止めたり、戻したりと、部員皆
さんの意見に支えられて、いろいろ悩みなが
1 年を乗り切れたと思います。皆さんあり
がとうございました。
ところで、今でも自分勝手に、学生が自ら
考えて練習なりをしていくことが学生スポー
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- 60 -
__rendered_path__8
1971 年卒 郷司 正和
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ツではないか、と思っています。当時は諸先
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輩や伊藤コーチにはお断りも相談もせず、よ
くもまあ我儘をさせてもらったもので、それ
が未だに東工大バスケットにとって、良かっ
たのか、悪かったのか、または異端だったの
か、とほんの少し() 気にしています。
東工大バスケット部のいいところは(今は
解らないが)、大学から初めてプレーされる
人がいて、一緒に活動できるところです。練
習を考えるにはこれが結構難しいですが、最
近言われているダイバーシティを思えば、い
わゆる体育会系には珍しく、素晴らしいこと
でしたね。その上で優勝を目指すことは、至
難だが精一杯の挑戦をするところに大きな
価値があると思います。
() 卒業後のバスケとの関わり
就職後は三菱化学の黒崎事業所でプレー
をし、九州実業団で優勝して何回か全国大会
に行きました。九州と全国ではレベルの差が
大きく、それを皆さんに徹底させるのがなか
なかできませんでした。その後本社地区で、
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鹿子木さんとも一緒にプレーしました。リー
バスケットボールこぼれ話
【バスケットボールは何時、日本に伝わったか?】
の訓練校を卒業した大森兵蔵が東京
グ戦では毎週試合があり、週末家族サービス
が疎かになるので早めに辞めました。
その後バスケはほとんどせず、テニスをし
ばらくした後は、もっぱらウォーキングで体
力維持と健康管理を行っています。
() バスケから得たもの
自分はあまり人に相談したりしないので、
いわゆる人脈等の人間関係が継続している方
はおられません。バスケットから得られたも
のは、丈夫な体と、「練習は裏切らない、練習
以外での努力が必要」という何にでも当ては
まる、単純なことですね。特に東工大の場合
は毎日コートで練習できるわけではないの
で、各人が少しずつでも毎日トレーニングす
べきと思います。
( ニ) 最近(将来)のバスケ(仲間)との付き合い
全くありません。今は地域ボランティアを
いくつかやって、余った体力で社会貢献をし
ているつもりです。自分たち団塊の世代から
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1908 年、YMCA
定説である。
上の方々が、将来の世代のために仕事以外で
何かできればと思いますが、バスケからも同
じような仲間が増えればいいとは思います。
何人かの方とは Facebook で友達となって、
近況紹介や連絡をとれるようにはなってい
ます。
天邪鬼な人間ですので、OB 会に参加する
とか全く今は考えていません。「地域デビュ
ーには過去を捨てろ」とボランティア入門の
本で読みましたが、自分もそれを地でいくよ
う心掛けているつもりですから、お付き合い
は多分今後もないと思います。遠く九州の地
で頑張っていきます。
役員への寄稿依頼に対して、同期や先輩・
後輩の皆さんについては何も触れず、勝手な
ことばかりを書いて申し訳ありませんが、昔
とちっとも変ってない自分と思い、ご容赦く
ださいますようお願い申し上げます。
では皆さんお元気で!
以上
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(8)
YMCA で初めて紹介したとするのが
(秩父宮スポーツ博物館資料より)
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- 61 -
合宿の思い出
私が在籍していた 197074 年当時は、3
年生部員が合宿計画を立案することになっ
ていて、担当を任された部員の出身地・出身
校に誘致されることが多く、1 年生の夏・春
から 4 年生の夏までの 7 回の合宿で、色々な
地方に旅をして、方言、人情、風習などに触
れることが出来た。基本日程は、初日現地集
合の後、午後から練習、
2
6
日目は午前・
午後で 12 回、7 日目は午前中練習で午後
は紅白試合、夜は打上げのようになってお
り、下級生の頃は 2.5 時間×12 回の練習をど
のように生き抜くかが問題で、地元の高校と
の練習試合が組まれたりすると、練習時間が
減るのでほっとしたものだった。
これから紹介する 7 回の合宿のエピソー
ドと当時のスポーツトピックスで、同世代の
方々に 40 年前に思いを馳せて頂けたらと思
う。
[1970 年夏 群馬県沼田市]
2 年先輩の桑原さんの母校沼田高校での
合宿。初めての合宿で何が起こるか判らず、
事前に東京で高校の練習に参加して調整を
行ったのが功を奏して、何とか無事に乗り切
ることが出来た。
中には足の裏にまめが出来て水膨れにな
り、それでも根性で最後まで走りぬいた友
も。小休止のときに水を飲み、主将の郷司さ
んに叱られる。当時は水分補給より「根性」
のほうが大事だった。また熱中症という言葉
は聞いたことが無かった。
合宿の打上げコンパは宿舎の旅館で、列車
の時間まで春歌を歌ってドンチャン騒ぎに
なり、練習よりも大変だった。
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- 62 -
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1974 年卒 木村 正孝
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この日(820)、甲子園で東海大相模が
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初優勝した。
[1971 年春 茨城県鉾田市]
4 年生が卒業して人数が減ったため練習
の密度が濃くなり、宿舎から練習場の鉾田第
一高校まで、トワ・エ・モアの「誰もいない
海」を「つらくても、つらくても死にはしな
いわ~」などと歌いながら長い坂道を登り降
りして通った。
旅館では、近くの部屋で宴会をやってい
て、酔っ払いが間違えて部屋に入って来たり
して身体が休まらない。
同期の女子マネージャ(当時はレアだっ
)大野さん(後に 3 年先輩の藤本さんと結婚
した)も参加したように記憶している。
[1971 年夏 新潟県妙高市]
練習場は小学校の木造体育館で狭く、サイ
ドラインから壁()までの余裕が殆ど無か
った。しかも窓ガラスは普通の並ガラスで、
サッシごと外すことも出来ない。練習前に窓
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を片側に寄せてガラスに当たる確率を1/2
下げるようにしたが、合宿中に何枚ガラスが
割れるかが話題になった。ところが、速攻の
練習で開いた窓から外のグランドまでボー
ルが飛び出したことは何回かあったが、7
間の 12 回の練習でガラスには当たらず、1
枚も割れなかった。緊張感を持ってプレーす
れば、パスミス、キャッチミスは防げるとい
うことか。
打上げコンパで 1 年生が急性アルコール
中毒になる。
[1972 年春 広島県呉市]
特急寝台「出雲」で島根県浜田市に向い、
同じクラスの友達の家を訪ねる。数泊してか
ら、広島から遊びに来た友人の伯父さんの車
で、呉市まで送って頂いた。練習場は呉市総
合スポーツセンター。3 年先輩の郷司さんが
陣中見舞いに来てくださり、大いに盛り上が
った。
合宿終了後、同期全員で原君の実家にお世
話になり、翌日、安芸の宮島に渡って、厳島
神社に参拝した。前夜ごちそうになった広島
の牡蠣に中って体調を壊したのが約 1 名い
て、みんなの足を引っ張った。
この年 2 月、札幌で冬季オリンピックが開
催された。
[1972 年夏 福井県武生市]
1 年先輩の清水さんのトヨタ・パブリカに
乗せてもらい、東名・名神高速をひたすら走
って武生市に向う (まだ北陸自動車道は開
通していない) 練習場は武生高校。吉田
君は福井の藤島高校卒なのに、何故か武生高
校の体育館を借りることが出来た。
合宿終了後、同期全員に清水さんを加え
て、吉田君の実家に一泊し、初めて五右衛門
風呂を体験した。翌日、金沢に向かう組と別
て、永平寺に参拝して帰る。
[ 1973 年春 岡山県玉野市]
岡山駅で、定期券の大岡山の「大」の字を
親指で隠せば改札を通れるのではないかなど
と思いながら、勇気が無く実行しなかった。
練習場は、玉野スポーツセンター。2 面と
れる体育館だったが、隣のコートを女子大の
バトミントン部が使用していて、練習中暑く
なって窓を開けると、「風でシャトルが動くか
ら閉めて下さい。」と言われてむっとする。春
の選抜高校野球に怪物と言われた江川(作新
学院)が出ていて、練習中も試合経過が気にな
る。
合宿終了後、廣岡君と小関君は宇高連絡船
で四国へ渡った。
[ 1973 年夏 岩手県盛岡市]
東北本線で盛岡駅に着いてすぐ、4 年生 4
人でわんこそば屋に直行した。人数が二十数
人集まるまで待たされてから開始となり、小
関君が 1 位で私は 2 位だったような記憶があ
る。
練習場は盛岡体育館。主将の廣岡君が遅れ
て来ることになったので、副将の私が体育館
の管理者の前で挨拶することになり、焦る。
旅館では、夏休みでひげをのばしていてス
ポーツ刈りだったため、おかみさんに「沢村
さん」と呼ばれた( キックボクシングチャンピ
オン、真空飛び膝蹴りの沢村忠からだろう) 。
合宿後、原君、高岸君と共に、十和田湖を
見物してから北秋田市の母の実家に一泊し、
翌日は伯父の車で男鹿半島を回った。サザエ
の壺焼きを食べたドライブインのテレビで
は、ジョージ・フォアマンの統一世界ヘビー
級タイトルマッチ(日本武道館)を放送してい
(91)
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- 63 -
改めて合宿地を並べてみると、やはり夏は
その証拠に、2 年時のトーナメント戦(関東
少しでも涼しい北国を、春は暖かい地域を選
大学選手権大会)では、リーグ戦 2B リー
んでいて、合理的に選考していたことが判り
グだった東海大に 22 点の大差で勝利した。
興味深い。
また、最後の秋のリーグ戦(3B リーグ)
は、最終戦で上智大と全勝どうしで対戦し、
もっとバスケットの合宿らしい体育館での
3 点差で惜敗したが、61 敗の 2という
エピソードを綴りたかったが、つらい記憶は
成績を残すことが出来た。なお、この年 3
抑圧作用が働いているのか断片的にしか思い
B リーグの敢闘賞は原君が受賞した。
出せず、このような内容になってしまった。
以上
決して観光ばかりしていた訳ではない。
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バスケットボールこぼれ話(9)
【バスケットボール日本代表の活躍?】
・日本代表女子が 2004 年のアテネオリンピックに3度目の出場を果たした。
・男子は、1936 年のベルリンオリンピックに初参加したが、1976 年のモントリオールオリ
ンピックを最後に出場が途切れている。
(秩父宮スポーツ博物館資料より)
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- 64 -
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【写真】19661973 年頃の思い出
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- 65 -
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1966年3月(春合宿:千葉県千倉)
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1965年8月(夏合宿:伊藤コーチ、武田主将ら)
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1967年8月(夏合宿:長野県佐久市)
伊藤コーチ、稲垣学生コーチ、細入主将ら
- 66 -
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コーチ、
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1968年8月(夏合宿:岐阜県久々野町)
“ KORO” はOB会(工籠)のユニフォーム
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高松春合宿
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ユニバーシアード閉会式
- 67 -
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1969年合宿
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1970年夏合宿(沼田)
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1973年春合宿(岡山玉野)
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- 68 -
自主的な部活動を見守って
原辰次さんが東京大学に配置換えになる
と言うので、部長・監督のバトンを受け取っ
たのは 2002 年春です。その 7 年前まで教え
ていた神戸大学でも女子のバスケット部の
顧問をしていましたが、特にバスケットボー
ルに対する思い入れがあったわけではあり
ません。勤務地がすずかけ台キャンパスで離
れていることもあって、年に数回、事務的に
書類にハンコを押せばよい程度と思い引き
受けました。特に、当時は大ベテランの立花
雅男さんがコーチとして技術面のみならず
様々な面で学生を指導していてくれたので、
練習はおろか試合も時々足を運ぶ程度でし
た。
そのころ、OB 会の活動が徐々に活発にな
り、夏休みに入る時期に OB に呼びかけて行
OB 戦とそのあとの懇親会が定例化しま
した。現役としても多くの OB と交流できる
こと、そして何よりも寄付集めの絶好の機会
でとなる大切なイベントとなりました。私は
現役側の代表であると同時に OB 会側の一
員であることから、その会をオーガナイズす
ることが一番の仕事となりました。また、そ
れまで現役のマネージャが OB から直接寄
付を受け取っていたのを改めて、OB 会側で
寄付金をいったんプールして、現役からの明
確な使途の要求に対して、まとめて支給する
ことになりました。当時、OB 会の会計も私
がしていたので、右のポケットから左のポケ
ットにお金を移すような妙な感じでしたが、
しばらくして青木美保さんが OB 会の会計
を引き受けてくれてからスッキリしました。
さて、こういった運営面だけに目を配って
いればいいという甘い考えは 2003 年リーグ
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- 69 -
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1972 年卒 大野 隆造
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戦終了後に、見事に打ち砕かれました。それ
まで OB 会を通してお願いしていた立花コー
チに対して、現役学生が「自主的にやりたい」
と次期の退任を直接に求めたのです。これは、
私が次期体制についてリーグ戦終了後に学生
の意向を聞くことを怠ったために起きた不祥
事と考え、それ以降は新体制に代わる時点で
最上級生と面談するようになりました。しか
し、それからしばらくして、部員間の意思疎
通の欠如から立て続けに 2 件の不祥事がおき
ました。ひとつは公式試合のオフィシャルを
担当する部員が会場を間違えて時間に間に合
わなかったこと、もうひとつは学連の講習会
に部員が準備不足で臨み、関東学連に始末書
の提出を要求されたことです。学生による「自
主的な運営」はどうしても甘く流れてしまい
がちであり、やはりきちっと見守ることが必
要であることを痛感させられました。
立花さんのあとをフォローしてくれた関野
正宏コーチも退いて、2007 年から学生コーチ
と最上級学年による「自主運営」が始まりま
した。そして、5 部に降格したままなかなか
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昇格が叶わないなかで OB から厳しい目が向
けられ、様々な形での「指導」を受けた時期
人が、またチームがその自主的な活動を通
もありました。しかし、曲がりなりにも自主
してどれだけ成長したかが重要だと言えま
運営を続け、6 年目にしてようやく 4 部昇格
す。これは部活動に限らず研究室においても
を果たすことができました。
同様です。私はアメリカ人の恩師から、「教
たしかに最近の学生は「ゆとり世代」とか
師は gardener(庭師)と同じで、学生に土、水、
「さとり世代」とか呼ばれ、欲がなく意思が
日光、栄養を与えて育つのを待つのが大切」
薄弱であるように見えます。しかし、最初は
と教わりました。正直なところ、はじめはバ
バスケット部をリードできるのか危なっか
スケット部の監督・部長になるのは乗り気で
しく見える最上級学年になりたての部員た
はありませんでした。しかし、バスケット部
ちも、自分たちの責任で運営する難しさや苦
員のひた向きな態度とそれを支えるマネー
しさを乗り越えて次の学年にバトンを足す
ジャの犠牲的な活動を通して素晴らしく成
頃には、とても頼もしい姿に大きく成長して
長する姿を目の当たりにして、今更ながら、
います。まさに大学の部活動が重要な教育機
こうした機会を与えられたことを嬉しく思
会である証だと思います。その意味では、チ
っています。
ームの絶対的な順位などよりも、部員ひとり
以上
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__rendered_path__2
__rendered_path__26
バスケットボールこぼれ話 (10)
__rendered_path__75Image_491_0
Basketball という名称の由来は?】
1892 年には、Basket Ball と呼ばれていたが、1921 年に正式表記が
Basketball
となった。
(秩父宮記念スポーツ博物館資料より)
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- 70 -
東工大コーチ時代の想い出
平成 12(2000)年の初夏の頃だったと思う。
小生が転勤先の札幌から定年で戻り関連会
社で気楽に仕事をしていたある日、赤石賢哉
(2000 年入学・2 年間で退部)から突然電話
を貰った。彼の父君とは札幌でミニバスを教
えていた時のコーチ仲間で随分親しくさせ
て頂いたし、彼も高校時代に父親のミニバス
導を手伝っていた関係で満更知らない訳
ではなかったが、だしぬけに「東工大のバス
ケを教えてくれ、コーチがいない」と 1 年生
が上級生のような話をするのには驚いてし
まった。考えてみると小生の中学時代までの
クラスメートだった岡安彰君( 現 OB 会副会
長) もいることだし、時間も有るしというこ
とで気軽にお引き受けしたのが東工大バス
ケットボール部とのお付き合いの始まりだ
った。
確か、渋谷の東急文化会館の裏の喫茶店で
学生コーチの小泉・中島両氏とお目に掛かり
部の状況を伺ったのが部員との接触の第一
歩だった。
数日後に大岡山の体育館を訪れてコーチ
としてのスタートを切ったのだが、当時東工
大は記憶では関東学生連盟の 4 部で、高居主
将を中心に纏まったなかなか良いティーム
だった。
秋のリーグ戦も好成績を残し 3 部の玉川
大との入替戦を代々木第二でやったのが記
憶に鮮やかに残っている。その理由は、夏頃
からの指導であったためスタッフ登録が出
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- 71 -
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__rendered_path__4
元ヘッドコーチ
20012003
慶應義塾バスケットボール
三田会 立花 雅男
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来ず公式戦は全てベンチの外からの遠隔操
作であったからだ。今でも酒の席で当時 3
生センターだった高居君から「ベンチの後ろ
からデカイ声で怒鳴っていた」と冷やかされ
ている。
そういう訳で年間を通して指導したのは、
主将で言うと 2001 年度高居君、2002 年度
柳沢君、2003 年度香川君の代の 3 年間。
東工大のコーチ時代を振り返ると、春夏の
合宿、理工系のトーナメントや一部リーグ
戦、そして関東学生の春秋の公式戦と多くの
想い出が詰まった中身の濃い 3 年半だった
と思う。その中からのエピソードをいくつか
ご披露しておこう。
__rendered_path__72
その 1 鹿子木現会長との出会い。2002
春のトーナメントの時だったと思う。千葉県
柏市の麗澤大学で関東学生トーナメントの
ゲームがあった時のこと、鹿子木先輩が声援
に見えているとマネージャから連絡があり
試合後にご挨拶したのだが、学生達はあまり
先輩の顔を知らず挨拶も出来ていない。その
頃は OB 会組織の活動もまだまだという時
であったが、もしこれが自分の母校だったら
目から火が出る程に叱責されただろうと思
う。その時はゲーム後もコーチより前にお話
しを頂くよう指示し、また同時にバスケット
ボールだけではなく学生達の OB 諸先輩に
対する接し方から教えねばならないと痛感
した。
学生諸君、体育館や試合会場で知らない顔
の方が居たら全て先輩だと思え!たとえ間
違えても、挨拶されて悪い気持ちになる人間
はいないのだから。
その 2 一橋大学とのゲーム。東工大と一橋
は昔から好敵手として存在しているという。
当時一橋は 1961 年卒の津田孚人さんが監督
をしておられたが大変に熱心でバスケット
ボール大好きな人だった。
橋とは定期戦のように毎年お手合わせ
をして頂いたが、その度に目にするのは、毎
回一橋のベンチの向かい側には何人かのか
なりお年を召した(失礼)OB が観戦に見えて
いたこと。部の現状(強弱)に拘わらず熱心に
学生のプレーを見に来る OB がいることに
は頭が下がる思いだった。それが今では東工
大も OB 会組織が活性化し、多くの先輩がゲ
ームを見に来て下さるようになったことに
学生は感謝しなければいけないと思う。これ
は好プレーでお返しするしか方法はないの
だ。
その 3 大岡山体育館。人呼んで「冬の冷
房・夏の暖房完備の体育館」。秋のリーグ戦
第一週が大岡山の体育館で開催された時の
ことだ。その日は朝から天気が良く体育館は
プレーと気温の熱気に包まれて大変な暑さ
だった。我々はホームコートだから慣れてい
るが他校のスタッフ、選手はさぞ暑かったの
だろう。会場に着いてしばらくするとマネさ
んが飛んできて「救急車を呼びますか?」と
聞いてきた。「ん…どうした?」と聞くと埼
玉大のコーチ( 本人の名誉のために敢えて名
を秘す) が暑さで倒れたとのこと。選手なら
兎も角スタッフが倒れるとは!こちらはそ
れどころではなく、「そんなの放って置け、
本人の不摂生だ!」と言ったものの、今考え
ると全く冷や汗ものの一場面だった。
今回、青田先輩からお手紙を頂き、書くこ
とが無いなと思いながら、資料を見ながら当
時を回顧しているとあれやこれやと 1500
程度では収まりがつかない程の記憶が甦っ
てきた。
あとはまた席を移してお話しをすること
にしましょう。3 年半という短い間でしたが
関係各位に大変お世話になりましたことを
改めて御礼申し上げて筆を置くこととしま
す。
以上
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- 72 -
東京工業大学バスケットボール部活動への雑感
寄稿に当たりいろいろと考えを巡らせて
みたものの、もともとバスケットについて書
けるほどバスケットに執心していたわけで
はありません。現役時代の成績も自分では
「良くなかった」記憶だけで、恥ずかしなが
ら当時の順位を先輩 OB の方から教えて頂
いたほどです。
思い起こせば、中学校に野球部・サッカー
部が無く、第 3 候補のバスケット部に入部し
たことが、部活としてのバスケットを始める
きっかけでした。
高校でもバスケット部に入ったが、病気を
理由に中途退部。ただ、スポーツは好きで、
また良い意味での体育会的な先輩・後輩関係
が好きだったので東工大でもバスケット部
に入部したのでした。
こんな“ バスケットボール” 落第生の小生
ではありますが、“ 東京工業大学バスケット
ボール部” に対する感謝の念は強く持ってい
ます。現役時代は、主務・キャプテンを、修
士課程
1
年時にコーチを
1
年間務めました。
部活動及び OB を含む先輩・後輩との交流
を通じて、貴重な経験を得て、多くのことを
学んだと思います(そういえば、卒業後の就
職活動では、学生時代に力を入れたこととし
て、まずバスケットボール部の活動について
説明していました)
特別の理由がない限り、ほぼ毎年 OB 会に
も参加させて頂いています(プレーはせず、
懇親会からの参加で、ここでも“ バスケット
ボール” 落第生ですが)。
小生が現役・コーチであった頃は、学生の、
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- 73 -
__rendered_path__9
__rendered_path__12Image_505_0
1987 年卒 冨田 博幸
__rendered_path__3
とりわけ現役の自主性を尊重した部活動で
した。部長やコーチの助言も考慮しながら、
現役がチームの構想を作り、それを部長・コ
ーチ・現役が共有して日々の練習・試合に反
映させることを目指していました。
学生であることに起因する“ 甘え” もあっ
て、思い返せば決して“ 模範” として語れる
ほどの部活動ではありませんでしたが、当時
は皆、自分たちは真剣に取り組んでいるとの
自負があったと思います。
また、OB 諸先輩方には(いわゆるバブル期
で多忙であったと思いますが)、試合の応援
OB 会に出席などご支援頂きました。社会
人として結果の重要性を良く知るがゆえに、
学生である我々の話を良く聞いたうえで、結
果に対する厳しくかつ適切な助言を頂いた
ことを覚えています。
このように東京工業大学バスケットボー
ル部の活動には、学生がチーム作りを考え、
次の試合を勝つための短期的な目標・施策
と、最後のリーグ戦に勝つための長期的な目
__rendered_path__15
標・施策とを立案・実施し、その成果責任を
バスケットボールこぼれ話
210
試合結果という形で、学生が負うところに良
さがあったと思います(このあたりは現在の
部活動にも当てはまるのではないでしょう
か)。特に、点差を競うスポーツゆえに、自
分たちの取組結果が試合スコアという定量
化された形で即座に還元され、それを踏まえ
て目標・施策を調整していく経験は、社会に
出てからも役に立ったと思います。
__rendered_path__2
FIBA の歴史と現状は?】
1932 年に結成され、現在、世界の
小生にとって東京工業大学バスケットボ
ール部は、「学生による自主的な組織運営に
際して、社会人 OB の助言を参考としつつ、
試合結果(数値評価)を踏まえた PDCA
ロセスを実践する」贅沢な部活動であったと
思います。“ 贅沢な” 東京工業大学バスケッ
トボール部の歴史を作った諸先輩に感謝し、
引き続き現役にとって贅沢な部活動であっ
てほしいとの願いを込めて、本稿を終えたい
と思います。
以上
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(11)
以上の国と地域が参加している。
(秩父宮記念スポーツ博物館資料より)
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- 74 -
年度コーチ時の思い出
95
今回、寄稿依頼をいただいたのは、95
度の岡本主将率いるチームが関東秋季リー
6 部で全勝優勝し、その年度にコーチとし
て采配させていただいた試合で全て勝った
ためだと思う。現役時代の思い出も多々ある
が、今回はコーチ時の一年間について寄稿さ
せていただく。
95 年度の当時、93, 94 年度共に 6 部で優
勝できる実力を持ったメンバーと思ってい
たのが、2 年続けて 1 敗を喫して昇格できな
かったのがとにかく悔しくて、是が非でも優
勝したかった。その思いからかコーチをやり
過ぎたかも知れない。あの年は例年になく
23 年生の退部が多く、「あんなに練習を厳
しくされるとは思わなかった。たかが東工大
でこんなに頑張れない。」と退部者が言って
いたというのを人伝に聞いたこともある。
全勝優勝についても、後年、当時の選手か
ら「接戦が無かったからゲームの思い出があ
まりない。むしろ練習で井上さんに必要以上
に走らされたことを覚えている。」と言われ
たこともある。「あれでよかった。」と言って
くれるのは、95 年度に 2 年生だった実弟の
智春くらいだ。
当時の関東リーグは、91 年度に 6 部まで
だったのが 9 部までに分割され、92 年度か
14 部は各 8 チーム、58 部は AB
ループ各 8 チームで 16 チームずつ、残りが
9 部の構成だった。その中で本学は 92 年度
7 部で全勝優勝(この年 2 年生だった私の
リーグ戦での成績は、最低 20、最高 42、平
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- 75 -
__rendered_path__10
1995 年卒 井上 英彦
__rendered_path__3
26 得点だったことだけを覚えている)し、
9395 年度は 6 部にあった。
正直に言えば、
6
部に昇格してもグループ
8
チーム中の 34 番手位でとても優勝はでき
ないだろう思っていたが、93 年に常木、斎藤、
94 年に智春といった当時の 6 部であれば 1 on
1 をすると大抵は優位に立つ選手が入部して
くれ、状況ががらりと変わった。
斎藤はミニバスで全国優勝、中学で全国準
優勝したチームの主将で万能選手、パワーも
あるがどちらかと言うとスピードある展開が
好きな選手だった。常木は傍若無人とも言え
る程にスピードあふれる展開をフォワード・
センターに要求し、斎藤の好みに合致したガ
ードだった。智春はパワーとテクニックでガ
ードからセンターまで対応できるセンターだ
った。
後輩たちから 95 年度のコーチを頼まれた
時から、現役時代からやりたかったことをや
りたいようにやらせてもらった。私(189)の引
退後、スタメンでは、斎藤(183)、智春(182)
のインサイドは小さいが、彼らの能力ならば、
190 程度の相手なら十分ディフェンスできた
し、全員が走れ、5 人全員が 3 ポイントから
ポストプレイまでできるのが強みだった。
名前を挙げると、常木、斎藤、智春、加藤
等の能力を岡本主将、石川がコントロールし
てくれた。コート上の頭脳はフォワードの岡
本主将であり、石川が 5 人のフロアバランス
を完璧に保ったり、相手のエースを封じたり
してくれた。
__rendered_path__14
話を戻すが、
94
年度卒論のための実験時
に装置の前でコーチングの専門書を読み、そ
ういったメンバーの特性からチームの姿を
イメージし、そのイメージに向けて秋の関東
リーグまでのスケジュールと練習メニュー
を考えた。指導教官には怒られそうだが、私
の卒論が終わった頃には 6 部優勝までのイ
メージができていた。
当時、それまでにやっていなかったことと
して、練習開始前に腕立、腹筋、背筋(初め
に腕立をやるとそのあとの練習中にシュー
トが打てなくなるとの苦情があったが、皆す
ぐに慣れて、狙いどおりにシュート・パスが
安定する筋力がついた)、練習最後の疲れた
ところで連続ダッシュ(疲れたところでは対
人プレーよりも単純なダッシュを繰り返す
方がケガをせずに心肺機能を追い込める。そ
れにより相手に走り勝つという狙いがあっ
)といった不評だったことも思いっきりや
ってもらった。
助けられたのは、実弟の智春が中核となる
選手の一人であり、彼とコーチ・プレーヤー
双方の視点から、勝てるチームに向かってい
るか?皆が練習に耐えられるか?をいつも
議論できたことだ。
また、それまでのコーチは練習に参加して
おられたが、私はフットワークやダッシュを
後ろから追いかける他は練習には参加せず、
常にコートサイドで笛をくわえながら練習
を見て、都度声を掛けるようにした。当時の
コーチは M1 で主将経験者が多く、十分な練
習相手になるが、私はプレーヤーの動き全体
を見て、立ち位置・体の向き・ターンの方向・
手の向き・視線の向き等に至るまで、場面場
面で求めるものを指導するほうがチームの
役に立つと思っていたし、そのとおりにコー
トサイドから見て、気付いたことがある場合
にはその瞬間に笛を吹いて止め、是正すべき
ことを言うというのを繰り返した。
加えて、外れても打つべきシュートがあ
り、入っても打つべきではないシュートがあ
ることを明確にしたかった。実は現役時代に
イージーシュートを外すと味方ベンチから
ヤジられ、難しいシュートを決めると盛り上
がる傾向にあることに疑問を感じていた。
本来、チームオフェンスをしっかり組み立
てれば、イージーシュートを打ち続けること
ができ、あとは確率の問題である。練習中も
ゲーム中も、チームの雰囲気はともあれコー
チとしては「今のシュートは外れたけれども
それでいい。いいシュートだった。それで外
れて負けたら俺の責任だから、同じ状況では
迷わず打ってくれ。」、「今のシュートは入っ
たけどダメなシュートだ。同じ状況では打つ
な。」と、もちろんいいシュートが入ればそ
れでいい、ダメなシュートが外れればダメ
と、言い続けた。
あとは後輩たちの体のキレや体調を見て
いただけで 6 部では優勝した。私自身も 6
部全勝優勝の思い出は、試合よりも、それま
での過程で考えたことの方がより記憶に残
っている。
以上、当時考えていたこと、やったことを
ごく簡潔に纏めてしまったが、コーチ時代に
負けが無かったわけでなく、春の関東トーナ
メントで格上チーム(95 年度に 3 部優勝し
た大東大) との試合の日に偶々私の都合がつ
かず、アシスタントコーチの栗原に委ねたと
ころ、83-86 の惜敗との報告を受けてびっく
りしたことを覚えている。
__rendered_path__3__rendered_path__61
- 76 -
当時の大東大は、IH 常連校出身の選手ば
かりで、本学など太刀打ちできないと思って
いたが、やってみると選手は勝てると思って
試合をしてくれたようで、弟の智春からも
「相手の能力や高さはすごかったが、バスケ
ットボールは上手くなかった」と聞いた。
__rendered_path__2
- 77 -
私は見ることが出来なかったが、センター
で言うと相手の 198cm 程度 2 人に対し、本
学は 182.3cm2 人でこれだけの接戦を演
じた当時の戦い方に、東工大バスケ部の飛躍
の道があるのかも知れない(この試合につい
ては、その場にいた方に報告をお願いした
)。
以上
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- 78 -
2000 年度 5
2000 年晩秋のことでした。現役が 5 部で
優勝し、翌年は一気に 3 部に昇格するという
情報を得ました。当時は今ほどインターネッ
トが普及していませんでしたが、私はたまた
ま情報産業の仕事をしており、多分 E-mail
で知らされたのだと思います。そして祝勝会
を開催するとのことでしたので喜んで参加
しました。
当時は小泉主将、主務小山さん、川合さん、
深川さんの体制で、水谷龍明コーチ、倉浪ア
シスタントコーチ、筆者と同期の原さんが部
長・監督として練習、ベンチを指揮していた
のでしょう。当時 4 年だった中島さんもコー
チを兼任されていたそうです。
2000 年のリーグ戦では、我が東工大は 5
部リーグで創価大には敗れたものの、埼玉
大、城西大、上智大、千葉大、流経大、亜細
亜大、日本工大、横国大、群馬大に勝利し、
9 1 敗の好成績で最終戦に臨み、横須賀の
防衛大コートで防衛大と昇格を賭けて激突
しました。前半は 36-333 点リードで折り
返しました。後半も一進一退の好ゲームで残
17
秒、
2
点ビハインドで、高居さん
(188cm)
がリバウンドを取り、シューター柳沢さん
(178cm)がスリーポイントを決めて 71-69
大逆転勝利しました。まさに歴史に残る快挙
でした。タイムアップの瞬間を撮った写真に
は、嬉々とした岡安さん(‘63)や今は亡き机さ
(’60)ご夫妻の猛烈な応援の様子が残って
おります。きっと若い OB も沢山駆けつけて
いたのでしょう。
部優勝・昇部と祝勝会
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__rendered_path__116Image_523_0
1974 年卒 小関 伸夫
Image_524_0
この結果、東工大は 5 部リーグで優勝し、
__rendered_path__120
リーグ再編の影響もあり、翌年は一気に 3
へ昇格しました。
いろいろ当時の様子を記述しましたが、実
は筆者自身、その頃は仕事に追われており、
現役選手はもとより、OB の方々のお顔もお
名前もあまり良く知りませんでした。今回、
歴史プロジェクトに加わり、鹿子木さん、岡
安さん、原さん、青木(旧姓川合)さんなどか
らお話をお聞きしてまとめてみました。特に
青木さんは貴重な当時のメンバー表やスコア
シートを保存しており、提供していただきま
した。
そして、その年の 129 日に東工大百年
記念館で、多くの OB/OG も集まり、祝勝会
が開催されました。その席で、最終戦の模様
を動画で見せてもらい、最後の瞬間には大歓
声が上がったのを憶えております。全員記念
写真では現役選手、主務、コーチのほかに、
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最前列には、超 OB の故滝島さん(’52)、太田
年度リーグ戦メンバー表
さん
(’53)
、故浅野さん
(’56)
、鹿子木さん
(’58)
川又さん(’60)、杉田啓さん(’61)、故渡邉雅大
さん(’61)、郷さん(’66)が居られ、中段には中
(?)OB の木村さん、原さん、吉田さん、高
岸さん、筆者(いずれも’74)がおります。後段
には若手 OB だった大嵜さん(’91)、水谷朋史
さん(’94)、斉藤芳久さん('97)、島野さん(’99)
木谷さん(’00)らの顔も見えます。
__rendered_path__31
2000
__rendered_path__92
- 79 -
このイベントを機会に、暫く活発な活動が
途絶えていた OB/OG 会を再度組織化するこ
とになり、岩永昭二さん(’51) が初代会長に
就任しました。以降毎年原則 7 月に OB/OG
会が開催されているのは皆さまご承知のと
おりです。
以上
__rendered_path__73
Image_529_0
__rendered_path__27
対防衛大戦タイムアウト
Image_530_0
#6 中島、#7 今井、#16 信太)
__rendered_path__15
対防衛大戦 「勝ちました!!」
__rendered_path__95
(中央右 岡安さん、左 机さん夫人)
__rendered_path__3__rendered_path__98Image_531_0
Image_536_0
2000 年祝勝会
対防衛大戦スコアシート
__rendered_path__4
2000 12 9 日 東工大百年記念館
- 80 -
2012 年度 4
《関東大学リーグ戦》
2012 年度、小路主将を中心とした力強い
チームがリーグ戦の 5 部渋谷 B 地区で 1
ステージを全勝で 1 位通過、2 次ステージも
1 位となり、入れ替えチーム決定トーナメン
トに進みました。そこでは、自動昇格にはな
りませんでしたが、順位が 6 位となり、4
の群馬大と入れ替え戦を戦いました。その結
87
53
と圧勝し、
4
部昇格を決めました。
5 部渋谷エリア B ブロック 1 次ステージ
1 位通過】
○ 東京工業大学 113-56 東京未来大学●
○ 東京工業大学 97-57 高千穂大学●
○ 東京工業大学 84-60 東京電機大学●
○ 東京工業大学 77-69 立正大学●
○ 東京工業大学 89-50 目白大学●
5 部渋谷エリア B ブロック 2 次ステージ
1 位通過】
○ 東京工業大学 93-53 立正大学●
○ 東京工業大学 80-61 目白大学●
5 部入れ替えチーム決定トーナメント
56 位】
○ 東京工業大学 89-62 都留文科大学●
● 東京工業大学 72-79 西武文理大学○
○ 東京工業大学 88-53 武蔵野大学●
● 東京工業大学 76-87 文教大学○
◇ 入れ替え戦【勝利】⇒ 4 部昇格
○ 東京工業大学 vs 群馬大学●
1P 19- 6
2P 24- 9
3P 26-10
4P 18-28
Total 87-53
- 81 -
部昇格と祝勝会
__rendered_path__200
1969 年卒 横山 功一(前出)
__rendered_path__208
《祝勝会》
__rendered_path__206
2012 12 2 日(日)15 時、蔵前工業会
館ロイヤルブルーホールで、関東大学リーグ
で、5 部から 4 部に昇格するお祝いの会が催
されました。現役と OBOG が一堂に集い
喜びを分かちました。ご寄付やメッセージを
寄せることで参加された方も大勢いらっしゃ
いました。
★ 今回の昇格は、長年掲げた目標の達成で、
今年の現役(小路主将・小谷主務以下約 25
名)の偉業と言えましょう。入替戦で群馬大
8753 で破って、4 部昇格を決めたわけ
ですが、下の部のチームが上の部を破る事さ
え非常に稀なのに、この大差で撃破したこと
は、画期的なのです。恐らく、関東大学リー
グの記録でも、ギネスブックレベルの出来事
だと思います。素晴らしい気迫で相手を圧倒
したのでしょう。第一クォーターの相手得点
は、わずかに 6 点でした。場所は 1964 年、
東京オリンピックのためにできた代々木体育
館でした。
★ 現役チームの指導陣、大野先生とコーチ役
を務める修士学生諸君の貢献についても記し
ておかないわけにいきません。中岡君がコー
チ、服部君と中田君がアシスタントを務めま
した。群馬大戦などのビデオをみると、中岡
君がノートを片手に戦況を分析しつつ指揮を
執っている場面を見ることが出来ます。テレ
ビで見る NBA のコーチは、ノートを使って
いませんが、ノート無しでは、緻密な指揮は
__rendered_path__3__rendered_path__70
できないというのが、鹿子木会長の見解です。
2012 年度 45 部入替戦 対群馬大学戦
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タイムアウトでのベンチ【撮影:小川智弘さん】
Image_544_0
Image_545_0
入れ替え戦で勝利した直後のチーム(代々木第 2 体育館)【撮影:小川智弘さん】
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- 82 -
Image_547_0Image_548_0Image_549_0Image_550_0Image_551_0
- 83 -
畑龍雄先生は、小さい紙片にメモを取って
タイムアウトの指示する前にちらっと見て
いたそうです。
5 部にいたのは 5 年間です。恩田主将・中
/井上主務、岩月主将・津田主務、鴇田主
将・玉野主務、鈴木主将・鈴木主務、昨年の
井上主将・石田主務の時代となります。降格
の苦しい状況から、毎年、じりじりと、クォ
リティを上げて、一昨年は、上位リーグで得
失点差で涙を飲み、昨年は、入替戦まで進み、
学習院大学と接戦を演じました。今年は、昨
年の教訓を活かして、最後まで気迫を込めて
臨んだことが、この結果に繋がったと言える
と思います。
★ 祝勝会の写真は、小川智弘さんに撮影して
頂きました。集合写真、同窓会から、現役の
小路主将に金一封の贈呈式、小路主将から鈴
木次期主将への引き継ぎ式、関野先輩のスピ
ーチ、西川次期コーチ、を紹介しています。
鹿子木会長の思いをもとに横山が記述し
ました
__rendered_path__3__rendered_path__25__rendered_path__41Image_555_0
以上
Image_563_0
小路主将から鈴木次期主将への引き継ぎ
__rendered_path__3Image_561_0
__rendered_path__6Image_562_0
- 84 -
__rendered_path__8__rendered_path__11Image_564_0
次期コーチの西川潤平君
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【写真】20002011 年頃の思い出
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- 85 -
2000年秋のリーグ戦(10月14日vs防衛大戦)
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5部リーグで11試合戦って、10勝1敗。
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防衛大に勝って、昇格が決まったとのことでしたので、2校が昇格したのでしょう。
私は、一試合も見に行っていませんが、岡安さんを通じて進捗状況を把握していました。
岡安さんをハブにして、滝島さん、机さん、その他の方が応援に行っていました。
我々から見て、チームの方は、原さんが掌握していました。
原さんは、タイムアウトの写真の隅に写っています。このゲームは原さんが指揮を執った
と聞いていますが、公式スコアには記載されていません。水谷君と倉浪君がコーチとして
と記録され、水谷君の署名があります。
勝った直後の写真のシャッターを切った人は、机君本人でしょう。杖を奥さんが持っていますね。
リーグ戦対戦成績
東工大vs 埼玉大
74:57
城西大
74:60
上智大
68:55
千葉大
79:62
創価大
43:64
流通経済大72:61
亜細亜大 81:66
日本工業大83:68
横浜国大 77:64
群馬大
101:79
防衛大
71:69
- 86 -
4部昇格祝勝会(2000/ 12/ 9)
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香川 柳沢
中島
青木
斉藤
島野
渡辺
大嵜
水谷
(朋)
宮本福間
坂内
倉成
大滝
川合
小泉
信太
高居
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関野
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水谷
木谷
掛井
(龍)
園田
三瓶
木村
小関
吉田
高岸 深川 小山
杉田
浅野
太田
滝島
鹿子木
川又
(啓)
渡邉
(雅)
祝勝会 2000年12月9日 東工大百年記念館
岡安さんから、防衛大に勝って昇格が決まったと言う知らせを受けて、「祝勝会をやって、
OB会らしい活動を始めましょう」と言ったのは私です。岡安さんが原さんと相談して、その
方向に進みました。
祝勝会の会場は、100年記念館です。
集合写真には50人あまりの方が写っています。小関さんの年代が沢山入っていますし、
大嵜君の姿もあります。このときの現役は、小泉主将から高居主将への変わり目で、
青木さん、香川君も写っていますね。この写真は、グループメールを使って多くのメンバー
に協力して貰い、全員の名前を書き込むと良いと思います。防衛大とのスコアシートも
付けてですね。試合経過も分かる範囲で編集すると、良い記事ができるでしょう。
私が聞いているところでは、残り17秒で柳沢君のスリーポイントが決まって逆転したそうです。
祝勝会では、この試合のビデオを見ました。そのビデオを探したところ、香川君が、上書きしてしま
ったと言うことが分かりましたね。
【鹿子木記】
- 87 -
2000年度関東大学リーグ順位
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- 88 -
【2003 OB会のスナップ】(2003.05.10)
【2003 OB会のスナップ】(2003.05.10.)
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OB戦 (2003.07.05.)
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- 89 -
【2003 理工系リーグ記念写真】(2003.04.29.)
【2003 理工系リーグ記念写真】(2003.04.29.)
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- 90 -
【2003頃の思い出】
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S.38卒同期会(2003.11.01)
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上京した杉田氏を囲んで(2003.11.11
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上京した横山弘氏を囲んで(2003.11.14)
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- 91 -
【2004年春の合宿】(2004.03.29.)
【2004年春の合宿】(2004.03.29.)
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アップしてます(午前)
スリーメン(午前)
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けが人も練習参加(午前)
フリースロー
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落とせばシャトルランが待っている(午前)
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3:2の練習(午前)
お疲れの昼食
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- 92 -
【2004年春の合宿】(2004.03.29.)
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2 on 2の練習(午後)
5 on 5の練習(午後)
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切り返しの5 on 5の練習(午後)
切り返しをもうひとつ(午後)
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- 93 -
【2005年度OB会】
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陸さん
中野さん
池田さん
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青木ファミリー
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岩崎主将
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郷司さん
木村さん
小関さん
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- 94 -
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藤井主将
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金近選手のパフォーマンス
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盛大に乾杯!
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- 95 -
岩永初代会長
現役のスピーチを見守る鹿子木さん
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歓談1
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歓談2
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歓談4
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  八嶋さん 川又さん  岡安さん 大野さん
北海道から参加した横山さん
- 96 -
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歓談3
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高橋さんのスピーチ
【OB総会 2006】
受付
現役メンバー
パーフォーマンス- 1
【OB総会 2006】
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- 97 -
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OB戦
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OBの方々
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パーフォーマンス- 2
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パーフォーマンス- 3
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歓談
【OB総会 2006】
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受付の陸さん
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滝島2代目会長
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鈴木解雄さんのスピーチ
- 98 -
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高木さんのスピーチ
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上島さんのスピーチ
【OB総会 2006】
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杉田さんのスピーチ
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稲垣さんのスピーチ
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小関さんのスピーチ 木村さん 河村さん 桑原さん
- 99 -
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現役の面々- 1
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現役の面々- 2
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滝島さん   稲垣さん
【OB総会 2006】
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大嵜さん    高橋さん    関野さん
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高木 鈴木 八嶋  木村  桑原  河村
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現役と歓談する岡安さん
- 100 -
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藤井主将と金近副将
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冨田さんのスピーチ
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鹿子木さんのシメ
【OB総会 2006】
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大野部長のスピーチ
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原さんのスピーチ
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スピーチを聴く現役諸君- 1
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檄をとばす鹿子木さん
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大野さんと鹿子木さん
【OB総会 2006】
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スピーチを聴く現役諸君- 2
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  岡安さん   鈴木さん
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青木さんの司会
- 102 -
【OB総会 2006】
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藤井主将   上島さん    稲垣さん
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藤井主将と現役メンバー
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- 103 -
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藤井主将のスピーチ
【2007年度 OB会】
古賀先輩のスピーチ
OB会の集合写真
若い先輩たち
【2007年度 OB会】
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河村さんのスピーチ
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恩田主将のスピーチ
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青木ジュニア
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- 104 -
【2007年度 OB会】
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中野さん  
鈴木大先輩
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稲垣さんのスピーチと中野さん
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滝島会長挨拶
- 105 -
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川又さんのスピーチ
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鹿子木さんのスピーチ
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柴家さんの音頭で乾杯
【2011年度 新人戦】(2011.05.29.)
2011年度 新人戦(2011.05.29.)の後の集合写真 
於 学習院大学 (撮影:鹿子木さん)
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- 106 -
伊藤さん、立花さん
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伊藤順藏先生喜寿祝いの会
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関野元HC・幹事
原代表幹事
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(1993年卒)
大野部長
鹿子木会長
(1974年卒)
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(1972年卒)
(1958年卒)
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滝島前会長
立花元HC
岡安副会長
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(1952年卒)
(慶應義塾大学)
(1963年卒)
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立花さんとの夕食会(青山二丁目の富福にて2003.12.20
- 107 -
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J.スミス著_水谷豊訳「バスケットボール その起源と発展」
(日本 YMCA 同盟出版部 1980/12/10)(秩父宮記念スポーツ博物館所蔵)
・「バスケットボールの歩み」(日本バスケットボール恊会 50 年史)(昭和 56 年3月 30 )
・「関東大学バスケットボール連盟 80 年史」(平成 1710 月1日)
・「東京工業大学学友會十年史」(昭和四年 十四年)(昭和十四年 学友會編簒)
・「東京工業大学七十年記念誌」(1951)
・「東京工業大学 130 年史」(2011)
・「蔵前工業会百年史年表」(20062)
・「部報」(2(昭和 332)4 号、6 号~第 8 (昭和 40))
・畑 龍雄「バスケットする心」(「新体育」より、昭和十六年)
・「へばったらがんばれ」( 龍雄先生追悼文集)(平成 121123)
・― 講演録 「科学・哲学・人間」(群馬大学前学長、畑 敏雄)(2010 12 19 )
・年賀状による― ― 畑 敏雄メモワール(20101219_あさを社)
・「六郎先生の思い出」(六さん会編集、昭和 561227)
・「みんなが語る伊藤順藏 平成十四年三月先生の早稲田大学退職に寄せて」(平成 143)
田原 聡一朗「日本コンピュータの黎明― 富士通・池田 敏雄の生と死― 」(1992.9.30)
・池田 敏雄「囲碁ルールについて」(復刻版)(平成5年1月 30 富士通)(非売品)
・池田 敏雄「国際囲碁規定考」
(On The Rules of GO, by Ikeda Toshio, published by Fujitsu,1992)
・「東工大クラブ紹介;バスケットボール部の活動と OB 会の状況」(蔵前ジャーナル 1004
2007 Winter, 2007 12 1 )
Yahoo!グループ TITbsk ブリーフケ-ス http://groups.yahoo.co.jp/group/TITbsk/files/
・「東京工業大学籠球部 OB 会報 20050420
・「東京工業大学籠球部 2005 年度 OB 会の報告_20050725
Yahoo!グループ TITbsk 掲示板 http://groups.yahoo.co.jp/group/TITbsk/messages
・「2000 年の快挙(昇格)の記録」(2012.8.29No.1557)
・「祝勝会後のお礼と報告」(2012.12.2No.1629)
・「RKM100 年史(アーカイブ)プロジェクトの説明」(平成 23 年度 RKM 総会資料)
・「東京工業大学ヨット部 50 年史」(平成 22 年1月 10 日発行_くらまえ潮会)
・年表(早稲田大学バスケットボール部)
・「明治大学バスケットボール部物語」(明治大学バスケットボール部 HP より)
- 108 -
一昨年の
9
月末に、東工大バスケットボー
ル部の歴史書を作ろうと言う、歴史情報プロ
ジェクトをキックオフしました。それから、
今日まで、凡そ一年半の月日が流れ、漸く、
発刊の目途が立ってまいりましたことは喜
1951
年卒
岩永
昭二
ばしい限りです。
私たち全員が初めての経験でもあり、当初
はどうなるものかと不安に苛まれましたが、
多くの方々のご協力と編集に携わった関係
者の努力によって何とか発刊にまで辿り着
けました。
母校、東工大サークルの中では、最近、ヨ
ット部が平成
22
1
月に「五十年史」
(
冊子
)
の発刊がありましたので参考にさせて頂き
ました。
私たち、バスケットボール部としてもその
活動の記録を残し、広く内外に情報発信をす
()
ることによって、今後の活動に資することと
なれば、素晴らしいと考えました。
また、この作業を通して、東工大バスケ部
関係者の絆が育成されることを強く意識し
ました。全員参加の情報収集活動、そして、
収集した情報をしっかりと管理して、それを
活用することを狙いました。
顧みますと、一昨年の
10
月に入り、元コ
ーチの立花雅男さんから拝借した貴重な蔵
書を紐解き、データベースに保存し、関係者
と情報を共有化することから始めました。当
1951 年卒 岩永
時この種のデータベースの構築に造詣の深
昭二
い藤本喜弘さんからご指導を受けながら、容
量が大きいこと、保存期間が無制限なこと、
費用が掛からないことなどから、Microsoft
SkyDrive を活用することに決め、参考文
献のデータ入力からら開始しました。そして
__rendered_path__120
- 109 -
__rendered_path__175
Image_772_0
__rendered_path__117
歴史プロジェクトリーダー
1961 年卒 青田 正明
写真(映像記録)、寄稿、管理資料など徐々に
データの分類をしながらデータベースを構
築して行きました。
当面の活動は、有志がコアになり、1 か月
半に 1 回くらいのペースで集い、時宜の課題
につき討議をしながら進めてまいりました。
昨年 3 月、4 月になり、歴代役員の方々を
中心に 112 名の方々に、SkyDrive のデータ
の共有化を実行しました。しかし、今後は、
閲覧する方々の立場で、もっとアクセスがし
易いような工夫を凝らそうと考えておりま
すので宜しくお願いします。
そして、5 月末の歴代役員の皆様への寄稿の
お願いを鹿子木会長と私から発信させて頂
きました。それを皮切りに、編集担当者が手
分けをして、秋口まで各年代のキーマンに寄
稿のお願いをし、沢山の方から寄稿して頂き
ました。今回、寄稿できなかった方もいらっ
しゃいますが、この歴史の活動は継続性があ
りますから、近い将来の次の機会に寄稿下さ
るようお願いいたします。
9 月初めになって、東工大 130 事業事務
__rendered_path__65
室を訪問し、橋本美克室長と道家達将科学史
(2013.03.27)
名誉教授と歴史に関する情報・史料の情報交
換をしました。杉田 (1961 年卒)さんから
提供された御父君の卒業アルバム(1930)
に両氏は大きな関心を示され、一方、畑
雄先輩が記した、東京工業大学学友会十年史
(昭和十四年発行)に掲載された篭球部の部
報の写しを頂きました。このときは、私たち
がそれまでに追い求めていた東工大バスケ
ットボール部のルーツを掴めた想いがして
正に痛快の極みでした。そして、本年が丁度、
創部から数えて 85 年であり、我々が纏める
歴史書は「東京工業大学バスケットボール部
85 年史」と命名することに自信が持てまし
た。
12 月には、三島 良直学長に、現部長の大
隆造先生を通じて、発刊の祝辞の寄稿を
お願いし寄稿して頂きました。これをきっか
けに、発刊に向けての活動に拍車が掛かり、
85 年史の構成、割り付け、収集素材の整理
作業などが一気に進み、成果を第 1 刷として
リリース致しますが、今後も、適宜、改版の
労を惜しまずにすることが良いように思っ
ています。
歴史についての活動は、記録、収集、保管、
__rendered_path__2
ある日の編集会議
- 110 -
編集、発信、そして、それのフォローアップ
などの一連のアクションから構成されます。
従って、現在の活動の記録は、歴史資料の源
であると言う認識を持つことが大切だと思
います。
現役のホームページや合同のメーリング
サイトに刻々と発生する記録は蓄積されま
す。私たち、OBOG、現役の皆さんの全員
が意識して記録を残そうとすることが大切
です。
最近になって判明したことですが、先人の
OB は、ある時期、毎年、ガリ版刷りの「部
報」を発行して、その年の活動記録を残し、
反省をし、来期に向かって目指すところを記
していました。これこそが世界にその名を馳
せた日本の管理技術に通ずるところがあり
ます。その行動こそが、進歩の原動力になっ
ていたのだと思います。
最後になりますが、85 年史編纂の過程で
活動に積極的に参加して下さった滝島前会
長(1952 年卒)、横山弘会員(1954 卒)、渡
辺雅大会員(1961 年卒)が、お亡くなりに
なりました。感謝と愛惜の情を込めて、ご冥
福をお祈りします。
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Image_858_0
【補稿】初版リリース後の反響
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- 111 -
増補版の発行に際して
- 112 -
この増補版制作の目的は、2013 年4月に
出版した第1版 Web 版を増補し、保存版の
出版を目指しております。
4 月に、「第 1 版」を Web 出版したとこ
ろ、多くの方々から温かい祝福のお言葉と
心からの声援を頂きました。
祝辞を寄せて頂いた三島学長には、バス
ケットボール部顧問教官の大野先生のお取
り計らいで、鹿子木会長、小職らが、同学
長室に訪問し、タブレットで「第 1 版」を
見て頂きました。訪問の際、三島学長が世
界のトップ・テン入りを目指すことを東京
工業大学レベルアップの目標として、達磨
を飾っておられるのを目の当たりに拝見し
ました。その直後、米ケリー国務長官来日
の際、同長官を大岡山に招聘、自ら司会役
を務めて講演会を催されましたことを知っ
て、本誌の表紙にも英文タイトルを加えて、
細やか乍ら、グローバル感覚のある冊子を
目指しました。
東工大博物館の道家達将教授からは、「年
表に白川英樹先生のノーベル賞」を記載す
るようにという貴重なアドバイスを頂きま
した。
既に、61 日付発行の蔵前ジャーナル
No.1037 号に「バスケットボール部 85 年史
編纂活動」の記事が掲載されました。その
歴史プロジェクト・リーダー
1961 年卒 青田 正明(前出)
記事の中には、本誌を閲覧または印刷する
ための URL が掲載されています。これによ
り、私たちの活動が本学卒業生の皆さんに
広く知らされるものと期待しております。
保存版は、本学関係では、図書館及び博
物館、並びに蔵前工業会(蔵前ジャーナル)
外部関係では、秩父宮スポーツ記念博物
館・図書館や日本バスケットボール振興会
に、印刷保存版を寄贈して所蔵して頂くこ
とになっております。印刷保存版の完成時
には、所蔵の範囲を広げる可能性もありま
す。
85 年史(第1版)をご覧になった多くの方
から貴重な情報を提供して頂きました。こ
の場をお借りして感謝申し上げます。
心の思いを綴って頂いた初代会長の岩永
昭二さん(1949/50 年度主将)、及び現主将の
中尾圭佑さん(2013 年度主将)からは、熱い
思いの寄稿を頂きましたので、増補版に掲
載しました。
これで我がバスケットボール部の 1949
年から 2013 年までの 65 年が健在な会員の
絆で繋がった思いがしています。
これからも、益々、会員相互の絆が深ま
り、東京工業大学バスケットボール部が継
続、発展することを願って止みません。
「東京工業大学バスケットボール部
- 113 -
初めにご多忙中の中、当該年史の編集を
企画して頂きました鹿子木会長に厚く御礼
申し上げると共に参画頂きました当該プロ
ジェクト・リーダーの青田正明様及びメン
バーの方々の並々ならぬご努力、ご苦労に
心より感謝申し上げます。
お蔭様で部創設以来、初めて立派な 85
史を作り上げて頂き歓喜に堪えません。厚
く感謝申し上げます。久方振りに私の半生
の友でありましたバスケットボールを回顧
し興奮致しました。
懐かしい昭和初期から終戦迄の資料を集
めるのには大変なご苦労があったと思いま
すが、良く取集されバスケット部創設の歴
史や活動状況を興味深く知ることが出来ま
した。当時は素人の集まりで部費もなく、
自分達で荒地を開拓してコート造りもされ、
コーチも招かれて激しい練習により昭和 3
年、4 年と関東専門学校リーグに優勝と云
う快挙は立派だと思います。
私が入部した昭和 23(1948)には同
期の島田様の他、主将は宮本様、佐藤様、
高橋様(共に 1949 年卒)と大塚様、大内様
(共に 1950 年卒)しか居らず、リーグ戦の
際には 5 名以上揃えるのに苦労しました。
1 年間ご一緒した横山 弘様へのインタビ
ューの記事を懐かしく読ませて頂き、当時
を回顧し、東京都内では体育館が少なく、
明治大、国民体育館、杉野短大等でゲーム
をした様に思います。
85 年史」を拝見して
同窓会初代会長
1951 年卒 岩永 昭二(前出)
また、渡辺雅大様(1961 年卒)の文中に中
央大とのゲームで勝利したら、後日、全員
が丸坊主になっていたとの記事を見て、私
も日大とのゲームの時、先方ベンチより、
「抜かれるな!」とか、リバウンドボール
の取り合いの際、「負けるな!」との檄が飛
ばされたことを思い出しました。これらは
東工大を見下げていた同じ様な現象と感じ
ました。
コートも新設され、鹿子木会長、外部よ
りのヘッドコーチの面々、諸先輩等の献身
的なご指導により総体的に技術の向上が図
られ、部員も増し、監督不在時には学生の
自主管理も出来る様になり、切磋琢磨して
充実の時期を迎えた様です。
そして数多くの新制大学が加盟され、学
連の組織変更等で対戦相手も一定しない中
で、1992 年には井上様(1995 年卒)等の活躍
で7部で優勝し、その後、1995 年には 6
で優勝を果たし、更に 2000 年には 5 部で
優勝、昨年は渋谷ブロックで優勝し、入れ
替え戦で勝利し、4 部昇格を果たされまし
た。
本学に於いて偉業であったと祝福申し上
げます。選手がトコロテン式に入れ替わっ
て行く中で波があるのは止むを得ないと思
います。今後は練習時間に制約のある技術
系大学では4部キープは簡単ではないと思
いますが、東工大の培われた伝統を維持発
展されます様祈願致します。
2013427
東京工業大学バスケットボール部 今と過去と未来
- 114 -
1.自己紹介
このたび東京工業大学バスケットボール
85 年史を OBOG 会の鹿子木会長より
贈呈していただきました。我が部を代表し
て主将の私が僭越ながら感想を述べさせて
いただきます。
鹿子木会長は「絆」をキーワードの一つ
に掲げて 85 年史を編纂されたと伺いまし
た。この感想文は絆という言葉の意味を私
なりに解釈・研究した上で記したものです。
稚拙な部分もあるかと思いますが、どうぞ
最後までお読みくださいますようお願いい
たします。
2.縦の絆~今と過去と未来、点は重なって
線になる~
分厚い。私が 85 年史を手に取った時にま
ず思った事です。パラパラとめくってみる
と写真を交えながら大勢の方の文章が綴ら
れている。全 132 ページに我がバスケット
ボール部の歴史が詰まっていた。鹿子木会
長のご挨拶から始まり、読み始めると大変
興味深いものばかりで、気がつけば最後の
ページまで一気に読み終えていました。そ
の中には昨年の群馬大学との入替戦という
記憶に新しいものから、外で競技をすると
いった歴史を感じるバスケットボールの姿
が見られました。
私がこの部活に入部したのは 20104
月。そこから二年生・三年生・四年生と上
級生へなっていくにつれ実感したものがあ
ります。OBOG という先輩方の存在です。
日々いただいているご支援や寄付金はもち
ろんのこと、それこそ練習後に夕飯に連れ
2013 年度主将 中尾 圭佑
て行っていただくたびにこの部活の「縦」
の繋がりを実感してきました。また一方で、
日々の練習メニュー。これには先輩達が考
えては実践し、また考えては実践し・・・、
長い歴史の中でたくさんのメソッド・ノウ
ハウが詰められてきました。
このように我々バスケットボール部の部
員はみな、先輩方が築きあげてきた歴史を
なんらかの形で体感・実感していました。
今回 85 年史が発刊されることにより、上記
の歴史は「書物」という実在する形で、さ
らに確固たるものとして後世まで引き継が
れていく事でしょう。
しかし、これで終わってしまっては不完
全であり大変もったいない。歴史は引き継
ぐと同時に今を生きる我々の歩みを上書き
し、さらに発展させてゆかねばなりません。
これは鹿子木会長に教わった理念です。簡
単な例をあげれば、先輩達に夕飯はご馳走
になったが自分は後輩達の世話をしない、
というのはいかがなものでしょうか。縦の
絆とは無限・エンドレスに続いていくもの
だと考えます。
私達 2013 年度東京工業大学バスケット
ボール部は今年の活動を 85 年史にプラス
し、また後輩たちには次の年度の活動をプ
ラスするよう促し、我が部の歴史をさらに
築いていくことに貢献・尽力していきたい
と思います。
感想は以上となります。最後までご高覧
いただきましてありがとうございました。
また、今回の 85 年史発刊の活動に携わって
いただいた方々に心より御礼申し上げます。
東京工業大学バスケットボール部同窓会歴史プロジェクトメンバー
責任者 会長 鹿子木 基員(1958 年卒)
リーダー 青田 正明(1961 年卒)
メンバー 藤本 喜弘(1956 年卒)、島田 昭一(1957 年卒)
星野 仁美(1959 年卒)、服部 (1959 年卒)
(卒年順)
高木 ヤスオ(1960 年卒)、杉田 (1961 年卒)
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岡安 (1963 年卒)、八嶋 建明(1963 年卒)
稲垣 達敏(1967 年卒)、福島 正之(1967 年卒)
横山 功一(1969 年卒)、大野 隆造(1972 年卒)
小関 伸夫(1974 年卒)、原 辰次(1974 年卒)
冨田 博幸(1987 年卒)、青木 美保(2003 年卒)
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東京工業大学バスケットボール部 85 年史
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増補版 平成 25720 日 発行
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(非売品)
発行 東京工業大学バスケットボール部同窓会
発行者 鹿子木 基員
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c 2013, The Alumni Association of Basketball Club of Tokyo Institute of Technology
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Printed in Japan
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