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1958 年卒  鹿子木  基員(前出) 

1945~1964 年の活動 

でした。池田さん率いる東工大バスケットは、

戦後の関東大学リーグに参加しましたが、池

田さんの超ワンマンチームでは、長続きしま

せんでした。この辺りの状況については、高

橋直先輩

(1949 卒)からお話を聞いたことがあ

ります。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

その後は、同窓会初代会長の岩永昭二さん

(1951 卒)、2 代目会長の滝島さん(1952 卒)、

松原光一さん、太田晴康さん、大橋宏さん

(1953 卒)、横山弘さん(1954 卒)の時代です。 

私が入学した

1953 年のバスケット部の体

制は、部長が畑敏雄助教授

(1939 卒)、監督が

須藤六郎助手

(1944 卒)でした。東工大のバス

ケットといえば、須藤さんがシンボルでした。

旧制水戸高校の選手として、全国大会で獅子

奮迅の活躍をしたそうで、当時、健康を害し

て居られましたが、部関係者ひとり一人を、

励ましたり、場合によっては叱ってくれまし

た。畑先生は、当時、原水爆禁止運動の推進

に多忙で、年数回の部員集会に参加して、ニ

コニコして居られました。主将、横山弘さん、

 

戦後の

20 年間の東工大バスケットの概況

を、紹介するのがこの稿の目的です。私が入

学したのは

1953 年でしたが、1949 年に新

制大学が設立され、従来の大学の中でも新制

度が始まりました。

1953 年・1954 年は、戦

後の学制改革で大学が旧制の

3 年制から新

制の

4 年制に変更過程の最後の時期でした。

最後の旧制学生と最初の新制学生が

1953 年

春に卒業しました。また、東工大の主たるタ

ーゲット分野である、ものづくりによる日本

の経済成長が始まる頃でもありました。

 

私は、武蔵高校で畑龍雄先生から卓越した

指導を受け、インターハイの決勝戦も経験

し、畑先生の実弟の畑敏雄助教授が部長をし

ている東工大バスケット部に入部しました。

これまでの

60 年間、粗密の変化はあります

が、ずっと通して、東工大バスケットとの関

係を楽しませて貰っています。

 

私は

1953 年 4 月入学から 1958 年 3 月に

卒業するまで、

5 年間大岡山で深くバスケッ

トに係わりましたが、前後の期間について

は、先輩から、後輩から見聞した情報からの

記述となりますので、記述内容には、ムラが

あります。

 

1945 年の夏、戦争が終わって、関東大学

バスケットの有志が集まって、リーグ戦復活

について相談をしたとき、東大、一橋大、早

稲田、慶応、立教、などの伝統校の代表に混

じって、東工大の池田敏雄さん

(1946 卒)が参

加しました。池田さんは、コンピューター、

囲碁でも有名な方ですが、バスケットでは九

段中学の

OB・現役で構成する一球会という

チームでの活躍で、全日本ベストテンの一人

 

 

池田敏雄さん

(東工大 130 年史より) 

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